「―――ッ!」
 美しいものは護るべし―――そんなポリシーが、無意識にコンラッドの体を動かしていた。フリードリヒに覆いかぶさるよう立ちはだかり、無数の光―――光を浴びて煌く細い硝子のような針から護ろうとする。
「……?」
 しかし、いつまでたっても背中に来るだろう鋭い痛みは感じなかった。
 自分は不感症にでもなったのだろうか、とロスの碩学≠ノしては愚かな考えが頭に浮かんだが、すぐにそれは打ち消された。周囲に針が散らばる自分の背後にもう一人の男が立っていたからだ。
 今まで開かれることのなかった黒傘の下で、黒一色に身を包んだ金髪の美貌が静かに佇んでいた。
「……ふむ」
 一瞬のうちにして黒傘一本だけで三人に針が刺さらぬよう、また飛んだ針が周りに影響しないよう跳ね返してしまったガートルードを見下ろした白一色に身を包んだ男は、満足そうに頷く。もっとも口元にまでも季節に不似合いなマフラーが巻かれていたため、表情が良くつかめないが鋭い栗色の目が楽しんでいる光をたたえている辺り、まだ男なりに楽しんでいるだけなのだろう。
 男は高い位置で括った黒髪を一つ揺らすと、もう一度手に細針を用意しつつ、低い声をかけた。
「なかなかやるではないか。いのいちに私を下郎と呼ぶだけある、と言っても良い」
「……」
 しかし男の声に、ガートルードは答えなかった。傘を下ろし、いつもより鋭い碧眼で相手を見上げるだけである。だがそれすらも気にしていないように、男は口元に拳を持っていくとくすりと笑みを漏らした。
「では貴様か。あの男の用心棒と言うのは……」
「あの男?」
 ようやく口を開いたガートルードの声は、不機嫌極まりないものだった。訝しげな色を含ませた瞳で男を睨みつけ、開かれたままの傘で背後の二人を守るようにしながら、疑問を投げかける。
「あの男とは誰だ?」
「アハト……否、そちらでは(・・・・・)クレメント・ルソーとかいう名を使っていたか?」
「!」
 ピクン、と相手の言葉にガートルードの肩が小さく揺れた。相手の口元が嘲笑するよう歪められているのに対し、真一文字に結ばれた傘男の唇はきつく噛み締められているようにも見える。ぎゅっと、見てわかる程に柄を握る手に力がこもった。
「なれば貴公は、我が敵と見なすが」
「構わぬ」
 形の良い唇を痕が残るまで噛み締めていた歯から、低い応答が漏れる。何処か憤りに震えていたその声だったが、次に漏れた時にはそれは愉悦の響きをこもらせていた。
「俺もたった今、貴様を敵と見なしたところだ―――」
 この直後の動きを見切った者は、そうそういないだろう。
 風がビュンと切れて鳴ったのを確認したときには、ぱらりぱらりと細針が雨のように落ちていく。しかし。でたらめではなくわかりきったように黒傘を振るガートルードの碧眼は、物騒な雰囲気に似合わぬような気配を纏い、ただ静かに男だけを見つめていた。まるで愛しき恋人を見つめるように優しく。それでいて、その瞳に暗い炎をたぎらせている―――復讐の炎を。
 その視線に気付いた男は、その栗色の瞳を柔らかく細め、後頭部で結い上げている髪の留め具に手をかけた。
「さて、お互い敵と判断したのだ……そろそろ名乗りたまえ」
「我が名はガートルード」
 金髪の美貌は、開いていた傘を閉じ、その柄を掴む手に力を込めると、一気にそれを抜き払った―――現れた鈍い銀色の輝きを、相手に見せ付けるように掲げると、その口元にかすかな笑みを浮かべる。カラン、と鞘代わりの傘が落ちた。
「リモージュ公ガートルード・マルソー……冥土の土産に、覚えておくが良い。サイプレス=v
「……ほぅ。私達を知っているか……アハトに聞いたのだな?」
「否(ノン)、クレメント(・・・・・)に聞いた」
 世界一嫌いな男と同じ顔をした男に向けて、金髪の剣士は吐き捨てた。長剣を正眼に構えて、クツクツと笑いを漏らし始めた男に訝しげな視線をやる。こんなにも愉快そうに、それも子供が笑うような純粋なものだ。何故この男は笑っている……?
「なるほどな。では私も名乗ろう。私はドライ。……ファミリーネームは無い」
 そういうと、男―――ドライは、その顔でニコリと微笑んだ。
「―――!」
 その顔が、クレメントを彷彿とさせ、一瞬だけガートルードに隙ができる。それを見逃さず、ドライは街灯を蹴るとガートルードに向かい、勢い良く飛んだ。カラン、と金属質の何かが落ちる音の直後、キュイーンと耳を塞ぎたくなるような機械音が響く。
 季節外れのマフラーが飛んでいったのを、誰かが目の端に捕らえた。
「出でよ、眠りし龍、目覚めよ、我に眠る力……絶対の主災厄の箱(パンドラ)の番人ゼウスに跪け。龍を宿いし剣士(ヌル・ドライ)#ュ動開始(ボックスオープン)」
 何処からか聞こえた声は、人にあらざりし妖気を孕んでいた―――
「―――ふっ」
 しかしそれにすら怯えず、ガートルードは腹から出した気合と共に長剣をドライに向け一閃する。だがそれに風が切れる不気味な音はしたものの、手ごたえが無い。
(何処だ、何処にいる―――)
 自分が空ぶったとわかれば、それについて戸惑うような愚かな真似はしない。それよりも自らの標的を探す方が先だった。鋭い碧眼を辺りに巡らせ、逃げ惑う人々の中に敵がいないかを確認する。何が起こっているかわかっていない群集は、ただ本能が訴える恐怖に怯えているだけだ。
 明晰な頭脳がいないと判断したと同時だった。
「ここだ」
 頭上から声が聞こえたのは。
「……!」
 直後のガートルードの動きは、ほぼ長年の勘というべきものだった。自らを護るよう剣を構え、上から襲い掛かる鋭い重みに踏ん張って耐える。空気そのものが鋭利な刃物のようだ。チリ、とした痛みを脇腹に感じてその重みがなくなったと同時、頭上を仰ぎ見る―――そこには悪魔がいた。
 長い黒髪が、風に弄ばれ生き物のように波打っている。その両側に生えた大きな黒い翼は、まるで鷲のように力強く羽ばたいていた。まるで龍のような刺青が顔や手に施されている。その手に握られているのは、身長よりも大きく見える幅広の長剣だった。空中で止まっているドライの炎を宿る栗色の瞳に見据えられ、ガートルードは一瞬だけ怯むが、すぐに剣を構えなおす。
 この急激な変化と、威圧感は何度もクレメント(・・・・・)で体験はしていたが、彼とは違う能力をどう対処すべきか。
「コンラッド、貴様はその男を連れ、あの大馬鹿者を連れて来い」
「……お前、マジでやる気か?」
 フリードリヒと共に立ち上がったコンラッドは、微かに眉をひそめて答える。彼にしては珍しい真剣な口調に、ガートルードはちらりと振り返る。だがすぐに視線をドライに戻し、頷いた。
「その通り(ザッツ・シュア)、だ」
「……はぁ、わぁったよ」
 面倒くさそうにガリガリと後頭部を掻いたコンラッドの口調は、すでに普段の面倒くさげなそれに戻っている。獣のように素早く立ち上がると、背後にいるフリードリヒに手を差し伸べた。
「フリード―――」
 だが、フリードリヒの行動の方が半瞬だけ早かった。
 残像だけをその場に残していなくなったと思うと、ドライがしていた髪留めに向かって風のように走っている。もはや人間の域を超えているそのスピードに、目を追いつかせようとしたコンラッドよりも、空に浮かんでいたドライの行動の方が素早い。ヒュンッと風を切る音を立たせ、派手な装飾を施してある長剣を、若者に向かって振り下ろす―――
「くっ!」
 しかし今度空ぶったのはドライの方だった。
 勢い良く地を蹴りフリードリヒを突き飛ばし、その勢いでごろごろと転がっていくガートルードを栗色の瞳で捉えて、声も無く笑う。
「……」
「やめろフリードリヒ!」
 けれども突き飛ばされてもガートルードほど転がらなかったフリードリヒの動きは、相変わらず素早かった。コンラッドの制止も聞かず体勢を立て直すと、再び髪留めに向かって走り出す。その手には、薄く平たい剃刀のような刃が握られていた。もう一度剣を振り下ろそうとしたドライだったが、元は黒曜石のような瞳だったそれが、不気味な蒼みを見せていることに気付くと、その手を止めた―――否、自然に止まったというべきだろう。栗色の瞳を驚愕に見開き見下ろし、その瞳の中の炎が不安げに揺れた。懐かしむような色を微かにだけ見せて、震えた唇を開く。
「―――貴公は、まさか」
「何処を見ている、下郎よ!」
 その唇は何を紡ごうとしたのか―――何があっても動揺しなかった瞳を愕然と見開くドライの耳朶を打ったのは、鋭い刃物のような声だった。同時、ブオンっと刃が旋回する音が、竦めた首の頭上で鳴る。だがそれはあくまでも注意を引きつけるためで、当たらない様にされたものだと振り返ったドライは気付いていた。
「貴様の相手はこの俺だということを忘れたか!」
「く……っ!」
 余裕そうだった口調が一変し、切羽詰ったものとなる。この場でガートルードが、背中から敵を襲うなどという騙し討ちをするような男でないことが、皮肉にも彼の命を救った。
 先ほどまでの威圧感は何処へ行ったのか。完全にガートルードが優位に立っている。しかしだといってガートルードは心優しい者ではない。体勢を立て直したドライへの攻撃は容赦ないものだ。体勢は立て直したものの反撃の隙すら許されないそれに、ドライはささやかな抵抗を試みつつも、視線だけは自らの髪留めに向けていた。
「……?」
 その様子に、真剣に相手をしてもらえないという怒りよりも、金髪の剣士は訝しむ方が先であった。碧眼を細めると、剣を交えている相手と、何やら奥で体を震わせているフリードリヒを見比べる。
 この二人は、一体何を……?
「貴様、一体……?」
 その言葉が誰に向けられたものか、自分でもわからなかったが、その言葉がピーっという電子音で掻き消されたのは、確かなことであった。


「―――何だってのよ、ツヴァイ」
 左耳につけていたピアスのボタンを押したフィアは、忌々しそうに呟き返す。目の前の二人が動かないよう牽制し、後ろで囚人達が逃げていく様子を確認して、向こうからの答えを待った。
[やぁ、ドライ、フィア。調子が悪そうだね]
 ピアスから微かに聞こえてきた声は、揶揄するような声だった。不思議と高く響くその声を聞き、アグライアを抱きしめたアハトの顔が歪む。
「あたいの方は絶好調だけど……兄様の方は悪いのかい?」
[ああもう、二人でいっぺんに話しかけないでよ。いいから聞いて。上様(オーバー)がお呼びだよ。すぐに戻っておいで]
「ちょっと待ってよ、ツヴァイ。こいつはどうすんのさ、アハトは! 今ここで壊さなきゃ―――」
[ドライ、すぐに戻っておいで。君のおかげで面白いものを収穫したからさ。それとフィア、アハトにはとどめを刺しちゃ駄目だよ。彼はまだ、得≠ェあるから]
「……わかったよ」
 暫く逡巡の時間を要したが、上の命令は絶対だ。短剣を鞘の中にしまい、フィアは長い溜息をついた後、ピアスのボタンを押して通信を切った。そして元通りに髪を結んだ手を無駄のない動作ですっと下ろし、アハトの顔を見下ろす―――嘲笑するような顔で。
「だってよ、ツヴァイに感謝するんだね。命拾いしたんだから」
「……っ」
 唇を噛み見上げてくる黒髪の美貌に、クスクスと中性的な顔立ちの美女は笑みを零して、踵を返す。その背にはもう悪魔の羽根は生えていなかった。そのまま瓦礫に足をかけ去ろうとするが、ふと何かを思い出したような顔つきになると、くるりと顔だけを悔しそうな顔をしたアハトに向ける。
「それとね。目上の者には敬意を払いなよ、今のあんたに、昔みたいな立場は許されないんだ。わかってるだろう? だから、ちゃんとあたいのこととか姉さん(・・・)って呼べば、少しは寿命が延びるかもね」
「私に寿命はない」
 フィアのどこか労わるような微かにやさしさの籠る言葉にも、アハトはキッパリと強い口調で断言した。アグライアからそっと腕を放して、フィアを真正面から睨み返す。そんな姿を、おぼろげに死刑宣告人(エクセキューショナー)≠ヘ不安げに揺らめく瞳で見つめた―――翡翠色の瞳に映る背中が、これほどまでに力強くそれでいて儚いと思ったのは何故だろうか。矛盾しているが、確かにそう感じたのだ。
 この背中は、一体何を背負っているのだろうか……?
「私は……お前達には負けない」
「……ふふ、そう」
 フィアは小さく含み笑いをして、弟(・)に背を向ける。弟の凍てついた視線すらも難なく背で跳ね返して、歩み始める。相手に戦意がないとわかっているからこそ出来ることだ。もしくは―――その整った横顔に、流れている液体を見られたくはなかったからか。
「じゃあね、馬鹿アハト」
 その声が拘留場に響いたときには、すでにそこに黒髪の美女の姿はいなくなっていた。
「……え?」
 カツン、という小さな石が転がる音で、アグライアはやっと我に返った。ぼやけた視界が、段々と鮮明になっていく。今まで自分は一体、何をしていたのだろう? あの女は? あの強硬派は?
「レディ・アグライア、無事ですか?」
「わ、ぁっ!」
 そんなアグライアの視界全域にいきなり現れたのは、クレメントの顔のドアップだった。いきなりのことに慌て、思わず頬を平手打ちしそうになったが、寸ででその手を止める。
 やっと、状況が理解できた。自分は逃がしてしまったのだ、あの女を。得体の知れないおぞましい何かのせいで。
「―――あ、あの女っ、何処に行ったの!」
「何処でしょうね」
 しかし職務に戻ろうとしたアグライアの熱気を冷ますが如く、クレメントの言葉は素っ気無く、冷たかった。そんなクレメントを真正面から睨み、死刑宣告人(エクセキューショナー)≠ヘ声を荒げる。
「何処でしょうね……って、あんた! あの女と知り合いなの? なら情報提供してもらうわよ、洗いざらい吐きなさい! いいわね、あの女は何処へ行ったの!」
「知りません」
「ふざけんじゃ―――」
 そこまで言いかけて、アグライアははっと自らの目を疑った。
 今にも胸倉を掴み上げそうなアグライアを見下ろすクレメントの瞳は、ここ二日見ていた柔らかい瞳と何ら変わりない―――しかし、そこに溜まるものは、人間でいう涙ではないか?
「え……」
 強硬派は血も涙もない―――そんな言葉は、誰もが知っていた。生まれたての赤子すら、それは本能として焼きついていることだろう。しかしその事実を覆す光景を今目の当たりにして、初めて、死刑宣告人(エクセキューショナー)≠ヘ強硬派¢且閧ノ戸惑った。
 アグライアは交通課の婦警だ。しかし死刑宣告人(エクセキューショナー)≠フ名を持つ者の特権として、刑事課に混じり強硬派関連の事件及び取り調べに参加することは可能である。何度も取り調べ、そして裁判を繰り返してきたアグライアの父、そして自分。幼いころから沢山見てきた強硬派。壊される最後の最後まで人間に対する恨みを叫び続けた強硬派。誇り高いつもりか命乞いもせず涙の一滴すら流そうとしなかった、強硬派。
 何故この男は……機械人間なのだ?
「……」
 涙≠流していたことを、隠そうともせず誇示しようともせず、ただ事実だといわんばかりに冷静にそれを手の甲で拭ったクレメントは、アグライアを正面から見つめる。美貌の何処か真剣さと、悲しさを孕んだその表情に、アグライアの心臓がドクンと跳ねた。
「申し訳ありません……あの者達を、逃がしてしまいました」
「は……?」
 予想もつかなかった言葉に、アグライアは一瞬考えるがすぐにそれが、捕らえていた囚人達だということに気づく。騒ぎにまみれて逃げてしまったのだ。
「……っ、仕方ないわよ……私だって、足がすくんで……何も出来なかった」
 初めて知った自分の無力さ。否、前からわかってて、認めようとしなかったこと。いつでも自分は成功だけしかしなかったから、こうして助けてくれるのを当たり前だと思っていたのだ。何をする時にも、必ず傍に誰かがいた。誰かに助けられていた。結局自分は誰かがいないと出来ない―――だから、自分はあの二人を大切にしなきゃいけない。
 自分一人では何も出来ないのだ。この世界はそう出来ている。故に自分は、同志を集めなければならない。正義≠フ名の下に集いこの世界を救う仲間を。共に死線をくぐり救世主となる友を。この世界がどれだけ暗闇に陥れられようとも、自らの手が真っ赤な鮮血で汚れてしまおうとも、決して人間≠フ名の恥にならないよう、護り抜かなくては。
 自らを? 違う。自らの大切な者を。
 そんな今の自分がすべきこと、それは相手の真価を見極めるということ……
「それは仕方ないですよ……貴方は、人間なんですから」
 ではこの男は、一体何者なんだろう?
「ねぇ、あんたは……あの女と、知り合いなんでしょう?」
「……知り合い……以上に、深い仲ですかね」
 まるではぐらかすかのように、クレメントは呟き返した。目を合わせたくないのか、顔を覗きこむアグライアから不自然に顔を逸らしている。機械人間にしては豊かな感情を持つこの男の表情は、見えない。
 それが無性に悔しくて、アグライアは思わず声を荒げる。
「っ、何なの……ねぇ、あいつは何なの……あんただって、わかんない……何者なの、ねぇ、答えて!」
「……」
 無言を貫き通すクレメントにアグライアの苛立ちは増すばかりだ。
 人を護るかと思えば、いざ必要な情報は教えない。自分を捕まえても構わないとほざく割には、自分の命を護るため必死だ。初対面の自分にぺらぺらといらないぐらい喋ってたくせに、今はもう必要なことすら話そうともしない。
 自分は今、何に近づいているのだろう?
 何故自分が、こんな目に合っているのだろう?
 それなのに、何故何も教えてくれないのだろう?
 自分が、弱いから、だろうか。自分が女一人も倒せない、弱小者だからだろうか。一人じゃ何も出来ない、強がりだからだろうか。それすらにも気付かなかった、愚か者だからだろうか。
 これからでは、遅いのか。
「早く答えて、私、わからないわ! あんたと会ってから、狂わされてばっか! 私には知る権利がある、そうでしょう!」
「……」
「答えて……クレメント」
 初めて、名前を呼んだ。教えてもらったのは昨日だったのに。
「レディ……アグライア……」
 少し驚いたように紫紺の瞳を見開いて、クレメントはアグライアの顔を見つめる。やっと、視線が交わった。
 昨日、自分を助けたときの真剣な瞳。けれど今は、酷く頼りないといっても良いほど、不安に揺れている。まるで迷った子供が誰かに助けを求めるような。今にもその瞳から、また涙が溢れそうだ。
 もう一度、声をかけようと口を開こうとしたその時―――ポケットの中の携帯が、着信を示した。

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