「……何だ」
 電子音に気をとられたガートルードから大きく後ろに飛びずさると、ドライは耳に付けられたピアスのボタンを押す。髪留めをその手にとることも忘れない。栗色の瞳で、剣を構えるガートルードと痙攣する体を持て余すフリードリヒに視線をやりながら、低い声を返した。
[やぁ、ドライ、フィア。調子が悪そうだね]
「ああ、その通りだ」
 響くように聞こえてきた揶揄するような声に、苦虫を潰したような答えを返し、ドライは髪留めで自らの長い髪を元通りに結ぶ。すぅっと翼が砂が落ちるように消える。
「フィアは無事なのか」
[ああもう、二人でいっぺんに話しかけないでよ。いいから聞いて。上様(オーバー)がお呼びだよ。すぐに戻っておいで]
 声の主は溜息をついているようだ。人間離れした跳躍力で、街灯の上にもう一度乗ったドライの唇が、何かを耐えるよう軽く噛まれる。
[ドライ、すぐに戻っておいで。君のおかげで面白いものを収穫したからさ。それとフィア、アハトにはとどめを刺しちゃ駄目だよ。彼はまだ、得≠ェあるから]
「……わかった」
 もう一人の身が無事だとわかり、黒髪の美貌は少なからず安堵したようだ。栗色の瞳を閉じ、ほぅと息をついてピアスのボタンを押して通信を切る。そして再び目を開くと、睨みあげてくる金髪の剣士を見下ろした。
「すまないな。勝負はお預けだ、ガートルード・マルソー。上の命令に逆らうと次の勝負の機会すら危ぶまれるのでな。これで失礼させてもらう」
「……一つ聞く、答えよ」
 マナーに則り無駄な動きなく一礼して見せたドライに対してのガートルードの言葉は、返答ではなく質問だった。そこに道は無いのに、無き道を歩こうとしたのか踵を返したドライは、横顔だけを下の剣士に向ける。氷のように凍てついた碧眼をしっかり正面から見つめ返した。
「何だ」
「……貴様には、俺に倒される覚悟があるか」
 金髪の剣士の問いは、自信に満ち溢れているでもなく、ただ事実を述べるような研究発表者のようなものだった。だまし討ちはしないとわかっている故にか、いくらか余裕を持って剣を鞘の役割を持つ黒傘に収める。
 そんな姿を見下ろして、ドライは思わず押し殺していた笑みを声に出してしまった。
「は、ハハ……面白いな、貴公は。気に入った」
 いつの間にか手にしていたマフラーで自らの笑んでいる口元を隠して、黒髪の美貌は不適な笑みの表情を見せる。ビュゥっと一陣の強い風が吹いて、長い黒髪が揺れた。同じように緑がかった金髪も揺れる。
「……勿論そんな覚悟は無い」
 暫くの無言の後、形の良い唇を開いたらしいのはドライの方だった。それきり顔をも背けてしまった相手を見上げ、ガートルードも声をたてずに笑った。
「それでこそ……我が敵だ」
「……」
 その言葉には何も返さず、ドライは勢い良く街頭を蹴る。人間離れした跳躍力ですぐに彼の身体は晴れ晴れとした青空に見えなくなった。
「―――無事か」
 それを見届け同じように背を向けたガートルードは、足早に同行者達の元へ向かうと、体を抱えられているフリードリヒの傍らでしゃがむ。痙攣は治まったようだが、時々勢い良く咳き込んでいる。そんな背をやや乱暴に摩ってやってるコンラッドに答えを求めるよう視線を移した。深緑の目を険しく細めちらりとフリードリヒを一瞥したコンラッドは、顎を撫でつつ冷静に回答した。
「大分落ち着いてる。動悸も無い」
「原因は?」
「……わからん」
 彼にしては珍しく眉間に皺を寄せて、苦く答えるコンラッドに金髪の剣士は訝しげな光を碧眼に宿したが、ガシッと肩を捕まれフリードリヒに視線を落とす。未だ息荒く肩を大きく上下させていたが、黒曜石のような瞳はしっかりと金髪の剣士を見上げていた。
「どうした」
「あのお方を……逃がして、しまわれましたか……」
「ああ……」
 ガートルードの返答に最後こふっ、と小さく咳を漏らしたフリードリヒは、柔らかそうな金髪を揺らして空を仰ぎ見る―――正しく言えば、先ほどまでドライがいた街灯の上を。その瞳は、哀愁のような、深い悲しみに溢れていて。しかしそれも一瞬のこと。ふらつく足取りで立ち上がった金髪の若者の顔は、すでにきりっと引き締まっている。
「僕達を狙ってきた理由……それは、僕達がサイプレス≠フ存在を知っているから、ですよねコンラッドさん?」
「その通り(ザッツ・シュア)」
 同じように立ち上がったロスの碩学≠フ呟きに、金髪の剣士も立ち上がってその怜悧な表情を見つめた。そして黒傘を手で弄びながら、辺りをさり気無く見回す。
 ここにアグライアがいたならば、すぐにこの騒がしい群集を落ち着かせようと行動に出たことだろう。しかしここに集まる三人は周りには興味を示そうとすらしない。額をつき合わせて小声で話している。
「あいつはあの男を知っていた。否、もしかしたらあの男目当てできたのかも知れんな」
「それは無いと思うぜガーティ」
 考えるように顔を軽く俯かせたガートルードにコンラッドは否定を示した。何故、と顔を上げた美貌に深緑の瞳を向けて、淡々と事実を述べ始める。
「クレミーだけを目当てにしたんだったら、俺達に興味を示さずクレミーを捜した。不利だったとはいえ素直に上の指示に従ったところを見ると、上の指示には逆らえないようだ。つまり、あの男がいないことを、あいつは知っていたんだ」
「それに、僕は良く聞こえなかったのですが、どうやら通信したとき二人相手に話していたようじゃないですか。だからきっともう一人が―――あっ」
「おお、そういや」
「……」
 そこまで言って、事実を再確認したようだ。ここにいない大馬鹿者の存在を思い出した三人のうち二人は、今更ながらに表面だけ安否を考える。
「あいつは無事かねぇ」
「さぁな、もしかしたらお陀仏かもしれんぞ」
「いやぁ、困ったなァガートルードちゃん? 俺達晴れて釈放……おっと、二人になっちまうぞ?」
「ちゃんづけするな下郎が! ……確かに困ったものだ。これで俺達は自由の身となってしまうのか……」
「……」
 台詞こそは困っている様子が伺えるが、ふたりの表情は満面の笑みと言っても良いほど晴れやかなもので、心配の要素など欠片すら存在していないのが理解できる。そんな様子を見ていたフリードリヒは、思い出したようにポケットから携帯を取り出した。
「一応アグライアに連絡いれてみます。彼女がもしかしたら取り調べているかもしれない」
「あ、そうか。アグライアがいるな……しまった、大丈夫か?」
「彼女にも心得はありますから」
 心配はさほどいりませんよ、と付け足して金髪の若者は二人から顔を逸らし、携帯を耳に当てる。ひょこひょこと近づいてきた二人を背にコール音を聞いていると、3回ほどした後にピッと音がした。続いて聞きなれた同僚の声。
[……もしもし?]
「アグライア? 僕だ」
[え……フリードリヒ?]
 何故か疲れているようなアグライアは、同僚以上の関係の友人からの電話に少なからず驚いているようだ。確かめるような彼女の小さな声を聞き取ったフリードリヒは訝しむように言葉を返す。
「どうしたんだい、やっぱそっちでも何かあった?」
[そっち、でも?]
 若者の発言に相手は今度こそ驚いたようだ。同じように聞き返すと、もしこの場にいれば抱きついて体を見回すだろう程に心配した声が、程なくしてスピーカーから響く。
[貴方大丈夫なのっ?]
「僕は大丈夫さ、心配ないよ」
 だから安心して、と宥めるように言われやっとアグライアは落ち着いたようだ。はぁ、と安堵の溜息が聞こえる。しかしそれもつかの間、次に響いてきたのは男性にしては高い物静かな声だった。
[失礼いたしますよ、レディ・アグライア]
 どうやら向こうで取り合っているらしい。この様子だとクレメントの手から携帯が奪い返せないアグライアが、何かを盛んに叫んでいるのだろう。返しなさい、という声が彼の声の背後で響いている。しかしそれすらも気にしていない様子のクレメントはそのまま言葉を続けた。
[初めまして。私クレメント・ルソーと申します]
「……初めまして、僕はフレデリック・モンゴメリーです」
 フリードリヒの言葉が返されるのにやや無言があったのは脳内での情報処理のためだろうか。慇懃に名乗った見えない相手に向かい、こちらも礼節をわきまえたモンゴメリー家の御曹司としての名の恥じぬ挨拶を返す。靴の踵をカツンと合わせ直す音がまるで軍人のように大きく響いた。
[……よろしくお願いしますね、ミスタ・モンゴメリー]
 彼も彼なりに情報を纏めているのか、暫くの無言の後に再び声が聞こえてきた。
[さて、話は手早く参りましょうか。たった今私達はとある集団の襲撃を受けたのですが―――]
[襲撃ってよりテロ行為よ!]
[黙ってレディ・アグライア……それで、そちらでも、ということはそちらも何か?]
「サイプレス≠フ襲撃を受けたんだよ、クレメント」
 同僚を嗜めた彼の問いに答えたのは問い掛けられたフリードリヒではなく、傍らでじっと聞いていたコンラッドだ。携帯を受け取ると、丸一日ぶりに会話するという事実は彼にとって長いものであるのか、まるで長年会えずにいた好敵手と旧交を温めるかのような響きを持たせて言葉を続ける。
「被害者はゼロだ、問題は無い。それより合流しないか……せっかくの感動の再会を盗み聞き泣いてる奴らがいたらやだからな」
 相手はどうやら電話口の向こうで相談しているらしい。小声がノイズに混じって微かに聞こえる。電波状況が悪いにしても、他人に内容が筒抜けなのはあまり快いとは言えないだろう。
「アグライア、聞いて」
 そんな中良い案でも浮かんだのか、フリードリヒが再び携帯を取り返す。パトカーに向かい足を進め始めつつ、なぞめいた言葉を発した。
「ファーター≠ナ待ち合わせだ、良いね?」
[……わかったわ]
 やっと携帯を取り返せたのか、荒い息をつきながら答えたアグライアに金髪の若者は「OK」とだけ返し、電話を切る。と同時に運転席に滑り込んだ。直後に後部座席に乗り込んだ二人を確認して、キーを入れエンジンをかける。そんな運転手にコンラッドは口笛を吹き揶揄するような声を投げかけた。
「何だよ、二人だけの場所か?」
「まあ似たようなものですけれどもね。この際仕方ありません」
「ほー」
 ピシャリと返答を返したフリードリヒに、感心した答えなのかそれともただの棒読みなのか、なんとも曖昧な答えを返して、思い出したようにロスの碩学≠ヘ手を打つ。
「じゃあそこ行く前シニョリーナのところへ行ってくれ。置いてけぼりにするとちょいとばかしうるさいんでな、あいつぁ」
 かりかりと頬を掻いたコンラッドの頬は、何処か恥らうように微か赤く染まっていたが、それに気付いたものは誰もいなかった。


 通りの外れにひっそりと佇む通称蔓の館≠ニ呼ばれる大きな屋敷は、下はとある名家が使っていたと近所では噂されていたが、現在では忘れ去られているといっても良いほどに話題にされなくなった。というのも、その家が蔓に埋まってしまい姿を見る者が誰もいなくなってしまったのである。元はレンガ造りだったのだろうか、緑に囲まれたかすかな隙間から赤い壁が覗く。唯一蔓が避ける窓も殆どがひび割れていて、廃墟なのは歴然としている。しかしそこに、珍しく一台の車が止まっていた。古ぼけているとはいえ広い屋敷には変わりない。それ故か時々そこに住み着く浮浪者もいるのだが、高級車を使用していることは流石にないだろう。
 そんな屋敷の入り口で、高級車―――キャディラックにも関わらずドアに腰を下ろしている者がいた。緑がかっている金髪を風に弄ばしているその下では陶器人形のように整った白い顔が何かを考え込んでいるように俯いている。黒一色に纏った身体に大きな動きは無いものの、時々苛立っているのか肘の上で指がリズムを刻んでいた。まるで雨が来るのを待っているように傍らに傘を携えているその人物は、ふと静かに目を閉じた。すると周囲に同化するように気配が沈んでいく。否、まるでその男がいる場所だけ別世界のようだ。心落ち着かせるようなそんな空間、苛立ちがなくなり指がリズムを刻まなくなる。自らの行動に満足いったのかその口元には微かに笑みが浮かび―――
「おや、ガーティ」
 瞬時に消え失せた。同時に嫌悪感をその美貌にあらわにして、その人物―――ガートルードは声をかけた人物に顔を向ける。
 黒のコートに白のタンクトップ、ジーンズという妙な組み合わせの服であるものの、ガートルード以上の美貌―――それも天から与えられたような中性的なそれを持つ黒髪の天使は対照的ににこやかな笑みを浮かべていた。
「お出迎えとは嬉しいことをして下さいますね」
「俺はただの見張り役だ」
 ただ素っ気無くそれだけを返し金髪の美貌はそっぽを向く。頬を膨らませているところを見ると拗ねたようにも思える。その仕草にクスクスと笑みを漏らすと、クレメントは近づいてその肩をぽんぽんと叩いた。その笑顔が黒いと思わない生物はこの世に存在しないはずだ。
「拗ねているのは可愛いんですが、降りてもらえますか、ドアから。へこんでしまうでしょう」
「お前は普段これをドアとして使用して無いだろう」
 それでも素直にドアから離れ歩き出したガートルードの言葉は正しいものである。普段クレメントは「オープンカーの心得」などと言ってドアを使用せず、ドアに手をかけ飛び降りるのだ。とある映画を見てからと本人は語る。優雅な姿ではあるのだが、それこそドアがへこむのではなかろうか。ガートルードとコンラッドの疲労は積もるばかりであった。
 すると溜息をつこうとしたガートルードを遮るように、女の声が響いた。
「さ、先行かないでよっ。連行の意味が無いでしょう!」
 短い黒髪を揺らし小走りにやってくるアグライアに二人は視線を向ける。どうやらクレメントを連行という形でつれてきたのにいつの間にか追い越されていたようだ。二人の前まで来ると軽く深呼吸をして、小首を傾げる。
「フリードリヒは?」
「中だ」
 クレメントに対するときよりは愛想があるが、それでも無表情に蔓だらけの屋敷を顎でしゃくったガートルードに、「ありがとう」と小声で返したアグライアは小走りで中へと入っていった。今にも壊れそうなギィというドアの閉まる音が完全に響かなくなってから、クレメントは金髪の剣士に顔を向ける。
「おいたはしてきませんでしたか?」
「はっ、怪我をするほど愚かではない」
 まるで母親のように柔らかく笑み身を案じてくるクレメントから顔を逸らして、ガートルードは威勢よく言ってみせたがこのひねくれたような様子だと、少しは怪我をしているらしい。溜息をつき苦笑を漏らすと、車に寄りかかりながら黒髪の美貌は言葉を続けた。
「誰でした? 刺客は」
 通信機の声は聞こえていたはずだ。だがあえそう聞いてくる男の意図を知ってかしらずか、金髪の剣士は素っ気無く返す。
「ドライ。そう名乗っていた」
「……ドライだけでしたか。確かに、人選は間違っていないですね。あの双子を寄越してくるとは……私は相当仕事熱心で勤勉な者と思われているらしい」
「は、冗談を」
 相手の白々しいまでの言葉に失笑したガートルードはその隣によると同じように車に寄りかかる。
 こうして、二人で並ぶことは久しいことだった。以前は自分より遥かに高いところに美しい顔があったものだが、今では見下ろせるまで成長している―――月日がたつのは早い。そんなことを思いつつ、ふとクレメントの頬の傷に気付きそれに自らの白い指を寄せた。ぱっくりと小さく裂けているが、血は出ていない。否、出るはずも無いのだが。
「……貴様こそ、怪我をしたのか」
「ん? ああ、こんなの大したことないですよ……貴方のに比べればね」
 ちらりと脇腹を一瞥したクレメントは、何が面白いのかクスクスと笑って手を引いたガートルードの頭を撫でた。「触るな」などと言って手を払うのは目に見えていたことだったが、何故かガートルードはその手を払わない。大人しく撫でられている。少し驚いたように目を見開いた黒髪の若者は思わずその手を引っ込めた。
「貴方が抵抗しないなんて……ガートルードなだけに、今晩の天気は槍ですか」
「貴様はどの法則を経てそのような予測をたてている」
 馬鹿らしい、と付け足して槍(ガートルード)≠ヘあからさまに溜息をついた。空を仰いでいるクレメントの突飛な発言は今に始まったことじゃないが、毎度のことこうして疲労を与えられている気がしないでもない。
「貴方が反抗期に入って、私より逞しくなっちゃってから、こうして甘えさせたことないなぁと思いましてね」
「貴様が甘えさせないのだろう」
「そうでした」
 可愛い子供には厳しいものですよ、と言いたげな口調を聞いたガートルードの口元に、微かな笑みが浮かぶ。口角を上げた肉食獣のようなそれに、クレメントは柔らかく笑み返してそっと目を閉じた。
 つい最近のように思える過去では小さな顔の中の大きな碧眼が、随分無垢な瞳で自分を見上げていたというのに。いつのまにかその子は大きくなって、自分よりも少しだけ高い位置にその碧眼を持つようになってしまった。自分と共に歩き、段々と険しくなっていったその瞳は今でも自分を見ているのだろうか―――時々そんな風に、思ってしまうほどに。
 自分は、変わっていない。
「……ドライは、元気でしたか?」
「聞くまでもないだろう」
 目を閉じたまま懐かしむように尋ねてきた相手に、剣士は素っ気無かった。肩にかかっている金髪をそこから落としつつ、伏し目がちの碧眼で地面を見下ろし答える。
「俺と戦った―――それで元気でないと思うならば、貴様の基準が狂っているだけだ」
「そうですね……元気ならよかった」
「……」
 変わっていない、あの人達も……
 瞳を閉じたままニッコリと美貌を微笑ませたクレメントに、ガートルードの顔が微かに顰められた。しかしそれは、不快感とかではなくまるで哀れむようなものだ。何処か悲しげに歪められたそれから視線を逸らす。指だけはもどかしそうに、滑らかな赤の車体を撫でている。言いたいことが、上手く言えない。
 暫く無言が続いた。
「―――貴方は」
 それを打ち破ったのは黒髪の美貌の声だった。真剣な雰囲気を孕んだそれは、普段の彼にしては珍しく凍てついているように冷たい。いつの間にか開かれた紫紺の瞳は自分を見ていないが、それで良いと思う―――ガートルードが珍しくそんな弱気なことを思ってしまったほどに、その瞳も、冷たい。
「あの人達に復讐したいですか」
「……」
 再び無言が続いた。
 しかし痺れを切らさず、クレメントは返答を待ち続ける。車体の縁に手をかけ、先ほどの雰囲気は何処へやらのんびりと空を見上げていた。もう夕方に近いのだろうか。西の空が微かに赤みを帯び始めている。昼と夜の境目。交わるそれが美しいと、教えたのは一体誰だったか……そして、誰に教えたのだったか。
「貴様は……俺がそんなことをすると思うのか?」
 自問の最中に、新たな疑問を投げかけられた。尋ねたのに尋ね返してくる子供に視線をやり、クレメントは苦笑を漏らす。
「どうでしょう、私はエスパーじゃないですから。わかりませんよ」
「ならば教えてやろう……」
 生意気な生徒に仕返しをする教師といった感じの口調で、ガートルードはゆっくりと言葉を紡いだ。しかしもったいぶっても、クレメントに大した効果は無い。そうとわかった剣士は溜息をつきながら答えを吐き出す。
「答えはいいえ(ノン)だ。貴様の剣で、俺はそんなことはせん」
「……私の剣、ですか?」
「そうだ(ウィ)」
 そっと黒傘の柄を撫でて剣士は頷く。訝しげな表情をしているクレメントとは顔を合わせず、黒傘に視線を落としたまま言葉を続けた。
「俺の剣は……すでに壊れている。あの時から……俺の剣は、兄様のものでもあったからな」
「……」
「だから俺は、貴様の剣だ」
 シュラッと音を立て、ガートルードは傘から剣を引き抜いた。先端が鷲のように作られた柄を握り、銀色に鈍く輝く刀身に自らの瞳を映す。そしてそれでクレメントの表情を伺いつつ、ヒュンッと剣を一閃した。
 それだけで、たまたまかその近くをひらりと舞った一枚の葉が、二分される。しかしそんなことは気にしないとばかりに、ガートルードは低く呟く。
「俺は俺自身を護る、俺を庇い亡くなった兄様のために。そして貴様の剣(おれ)は、主人(きさま)を護る……俺自身ののために」
「ガートルード、貴方―――」
「貴様の剣を、俺の私情で余計に汚すわけにはいかん……」
 汚れ一つ無い手入れのされた剣を眺め言葉を遮るようにして、キッパリと金髪の剣士は言いのけた。
「…………ふふ」
 何がおかしかったのか、ガートルードが剣を再び傘に収めたと同時、クレメントの唇から笑みがこぼれる。口元を覆っているが、肩が震えているのがバレバレだ。それをまるで未確認生命物体を見るような目つきで見るガートルードは、拗ねたようにした唇を突き出していた。
「何がおかしい」
「いーえ? ただ……貴方は、将来有望でしたね、本当」
「……」
 貴方は将来有望だ、ジェルトリュド君―――
 十年も前のことだが、今でも鮮明に思い出せることだった。小さかった自分が何かするたびに、まるで本当の親のように自分を褒めて、微笑んでいた。今も変わらない、同じ笑みで。それが嬉しくて、最初はたくさん手伝おうとしたものだ。その度に微笑んでくれる男の背中を追いかけて。振り向いてくれるのを、待って。綺麗に綻ぶ笑顔を見るのが、好きだった。
 そして自分は……
「……当たり前だ」
 見られないように俯きながら、ガートルードは微かに口元に笑みを浮かべた。
 無垢な少年のような、楽しげな笑みを。

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