「本来なら、僕は貴方達を捕まえて何処かへ軟禁しなくてはいけないんですが……」
 二日連続で立て続けにおこったテロ行為の所為で、調査団体や医療関係者以外に人影は少なく辺りは閑散としていると言っても良いだろう。そんな車の少ない道路を、一台のパトカーが走っていた。その中に乗っている柔らかい金髪を持つ運転手は、後部座席に座る二人の男に話しかける。
「正直なところ僕はそんなことしたくないですし……貴方達にそんなことしたら、何だか返り討ちにあっちゃいそうですから」
「俺達ぁ、んな乱暴じゃねぇんだけど……」
 クスクスと笑いを含んだ声に返ってきたのは、少しばかり濁った苦笑だった。しかし次に発せられた声にはそんな響きは微塵にも含まれなかった。
「しかしだ、ミスター・ニーチェ」
「フリードリヒで構いませんよ、ミスタ・フレーバー」
 先程から一言も言葉を発しない無愛想な同行者に代わり、コンラッドは後部座席から身を乗り出す。どうやら目の前のこの男は自分達の事情を知りつつも、こうしてくれているらしい。なら少しはこちらも友好的になり、今後のためにも有利な立場を築くべきだろう。
 その思いを知ってか知らずか、フリードリヒ―――フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは友好的な柔らかい笑みを、バックミラーに映した。しかし決して目は合わせない。
「なら俺もコンラッド……ま、クーノで良いぜ。……そいで、だ。フリードリヒ、お前さん俺達を何処へ連れて行ってる? この方向からして……タワーブリッジか?」
 隣の男が黒傘の柄に手をかけているのを確認しつつ、コンラッドは運転手に問い掛ける。その顔は先程までの楽しそうな笑みではなく、怜悧な表情を浮かべている。
「ええ、そうですね」
「何故そこへ俺達を案内する? 教えてくれよ(・・・・・・)」
「もう貴方ならおわかりになってるはずですよ、コンラッドさん」
「……」
 コンラッドは何かを言おうと口を開いたが、それを噤むと後部座席に寄りかかり押し黙った。腕を組んで黙り込んだ男に、ガートルードはちらりと視線をくれたが、それだけでまた前に視線を戻して同じように黙る。
(……実際理由がわかっていないわけじゃあない)
 深緑の瞳を鋭く細め、コンラッドは組んだ腕の先の指で肘を一定のリズムで叩き始める。彼が真剣に考えるときの、才能を発揮させた小さな頃からの癖だ。
 先程の問いはただの時間稼ぎといっても良い。相手をよりよく知るための誘導尋問でもある。
(こいつ……何者だ?)
 しかしこの金髪の男は自分の情報を垣間見せすらしなかった。自分の呪文(・・)にもこの男は対処し、サラリと流した。目を逸らされているとはいえ、初対面で自分の呪文にひっかからない者は、あのトラブルメーカー以来初めてだ。あのトラブルメーカーは天才の自分をも凌駕する力の持ち主だったからこそ、呪文が効かなかったのだが、この男は―――
(……面白ぇ)
 自然、俯いていた顔が不敵な笑みを刻む。肉食獣を思わせるその顔を、二人が見ることが無かったのが幸いと言えよう。凶悪そのものを表した顔を瞬時に隠すと、コンラッドは口を開いた。
「わかってねぇこたねぇが……俺が興味を持ってんのは、お前さんだ」
「……僕にそのような趣味はありませんからね」
 真っ正直に勝負を挑んできた男を、フリードリヒはちらりとバックミラーで確認して、悪戯っぽく返す。それを聞いたコンラッドは、まるで予想していたかのようにクスクスと笑い出した。
「それは少し残念だな……まぁいい、フリードリヒ―――否、ここじゃフレデリックか。お前さんの名前……どう聞いてもドイツ系の名前だ。だが言葉の訛りはウェールズときた。アグライアのことを調べてるうち、お前さんの情報も少し手に入れたんだが、お前さんウェールズのモンゴメリー家の息子だって話じゃねぇか。俺達に偽名を使うたぁ、どういう了見だ?」
「……僕としたことが、かなり貴方を見くびってしまったようです」
 すみません、と悪意の無い笑みを含ませた謝罪を述べた後、フリードリヒの顔がきゅっと引き締まる。
「僕の名前はフレデリック・モンゴメリー……モンゴメリー家の御曹司。そう通っていますが、実際として僕はモンゴメリー家の実子ではなく、養子なのです」
「で、その前の名前が」
「フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ……おっしゃるとおり、ドイツ系の名前です」
「……」
 未だ解せない点もあったが、ただ座って車を走らせているだけの運転手の、穏やかな姿から放たれる妙な威圧感、それを感じ取り始めたコンラッドは、自分の髪を指で梳き、無言で肯定を示した。
 何にせよ、今この状態を悪化させるのは不味い。今こうしてこの男は自分たちが求める情報源に連れて行ってくれるというのに、それをみすみす棒に振るような愚行には走りたくない。もしこの男が自分たちに危害を加えようとしていて、応戦せねばならないときは、それらが終わってからした方が得策だろう。
「―――だが一つ言っておくぞ、ニーチェとやら」
 あれこれと策を練っていたコンラッドの耳を叩いた不意の低い声は、今まで静寂を守り通してきた同行者のものだった。相変わらず黒い傘を抱えたまま、ガートルードは鋭い碧眼を運転手に向ける。
「俺達に―――あの男に危害を加えようものならば……貴様とて容赦はせん。我が刃を向けられたくなくば、腹蔵の邪心を今すぐ消し改めるが良い」
「……邪心などとんでもない」
 主を護る忠実な執事というよりか、鎖の付けられた手負いの野獣のような姿にも、フリードリヒは慌てるなどしなかった。この男に慌てるという無様な姿はないのだろうか。クスクスと笑むような表情に、変わらずおっとりとしたような口調で言葉を締めくくる。
「僕には邪心なんてありませんよ。僕は貴方達に頼みがあるだけで」
「頼みだと?」
 若者の真剣な言葉に、美しい孤高の野獣が噛み付いた。傘を掴む手の力が微かに強まり、相手を見据える瞳が更に細まった。訝しげな声が牙のような伸び気味の犬歯の間から漏れる。
「何が言いたい、貴様は」
「……貴方達は、サイプレス≠ニいう団体をご存知ですか?」
「―――っ」
 息を呑む音が意外にも大きく響いた。それきり苦い思い出を回想しているのか再びだんまりを決め込んでしまった同行者を、労しげに一瞥してから、コンラッドは頷いた。だがそれだけでは運転中の相手に伝わらないので、言葉を付け足す。
「ああ」
「僕はその団体を追っている一個人です」
 フリードリヒの言葉と一緒に、人々の喧騒が耳に入った。次に目に映ったのが、一昨日テロ被害を受けた「タワーブリッジ」だ。優雅にそびえていた跳ね橋は今、見るも無残な姿を晒している。相変わらず人の探索や救急作業が忙しなく行われていたが、昨日一昨日に比べ野次馬は大幅に減り、また残っている人も少なくなっていることは明らかだ。
 作業の邪魔にならない場所にパトカーを止める。キーを抜いて一番に降りたフリードリヒは、続いて降りてきた同行者に振り返り、引き締まった表情を見せた。
「君達がその団体を知っているなら話は早い。……僕に、協力していただけないだろうか」
「……協力?」
「僕はその団体を壊滅したい」
 男にしては線の細い痩身の何処からそんな声が出るのだろうか。おそらくは獅子すらも戦かせるような、ロスの碩学≠フ訝しげな問いに答えた低い真剣な声は、先程コンラッドが感じた妙な威圧感と酷似していた。
「しかし僕だけの力じゃ到底無理だ。だから、君達にも協力してほしい」
「……どうするよ、ガーティ」
「俺は構わんが」
 大げさに悩むふりをして振り返ったコンラッドに対し、重い沈黙をまもっていたガートルードは即答した。予想外の答えだったのか唖然としている薄黒髪の若者に、続けて言葉を吐き捨てる。
「俺が求めるものの途中にあやつらがいて、あやつらを倒さねばならんだけだ。周りに誰がいようとも関係ない」
「はぁ……さいですか」
「しかし俺とこいつは構わなくても、もう一人のうつけ者に納得させなければ」
「―――あの方なら」
 鋭い碧眼を光らせる美貌と、呆れたような表情のロスの碩学≠ノ背を向けて、フリードリヒは可聴領域ぎりぎりの声量で呟いた。それは何処か、懐かしむような音を含ませていて。
「あの方なら、納得してくださいますでしょう」
「……」
 晴れ空を仰いだフリードリヒに油断なく三白眼を向けて、黒傘を握るガートルードの手の力が強まる。そして目にも止まらぬ速さで、それは地と水平になるように掲げられた―――だがその先が向けられたのはフリードリヒではなく、自らの背後にその先を今度は斜め上に向けてガートルードは低く呻いた。
「―――何時ほどから、我らを尾行していた、下郎よ」
「ほぅ、私に気付くとは……貴様、只者ではないな」
 昼間に使われることの無い古めかしい街灯の上―――二人が人影を確認したときには、無数の光が頭上に降り注いだ。

          ※

「……!」
 視界を覆った眩しい閃光で、一瞬アグライアの視力が奪われる。それでも被害は少ない方だ。目の前の美貌溢れる若者の姿をした機械人間が自分の前にいて、光を塞いでくれたからだろう。
 そして次第に回復していく視界が次に捉えたのは、大きな穴の開いた壁の向こうにいる痩身だった。
「はン、何であたいがこんなとこに来なくちゃいけないんだ……」
「なっ……!」
 その痩身―――どうやら女性らしい―――から漏れた声は、心底苛立っているようだった。逆光でよくわからないが、握りつぶせそうなほど細い首の上に乗っている中性的な小顔が顰められているようにもとれる。高い位置で一つに括られている黒髪を、爆風に晒しているその女は、長身でありながら何処か少女めいた口調で、愚痴を零す。
「兄様やあの方のご命令とあっちゃ仕方ないけどさ、あたいってば本当かわいそ……おい、そこの愚図共」
 乗っている瓦礫を足で崩しつつ、女は囚人達を見下ろして、くいっと親指で穴の開いた先の外を示す。
「逃げるんなら今のうち逃げな。ハッピーは無駄にするもんじゃないよ」
「お、前は……?」
 傷だらけの顔を訝しげに歪めて、唖然としている囚人達を代表した巨漢は、冷酷ともとれそうなほどに冷え切った女の栗色の瞳を見つめ返した。いきなりのことに、この女が味方か敵か、同属か人間派かすら判別出来ていない。そんな様子に女は大人びた顔に悪戯っぽい笑みを浮かべ、ちろりと赤い舌で唇を舐める。
「あたい? あたいは機械人間。あんた達の味方さ……我がサイプレス≠ヘあんた達みたいな、人間と戦う勇者達を大歓迎するんでね」
「……サイプレス?」
 聞きなれない単語をオウム返ししたのは巨漢ではなく、ホルスターに手を伸ばしかけていたアグライアだった。
「おや……? メスブタが一匹いたとはね……しかも、我らがサイプレス≠知らないとは」
 初めて気がつきました、とばかりに嘲笑するような形に唇を歪めた女は、自らの腰に手を当て、気丈にも睨みつけてくるアグライアを楽しそうに見下ろした。そこで、彼女を遮るように座っている黒髪の男に気付く。正直存在が薄すぎて気付きやしなかった。大人びた顔に何処か呆れた色を浮かべて、逃げようとしている囚人達を顎でしゃくる。
「ン? そこにいんのは誰だい? 機械人間なんだろ、こいつらと早く逃げな」
「……」
 黒髪の男は無言のまま、物音を立てず優雅に立ち上がる。パレットから漏れた黒髪が、ゆらりと揺れた―――たったそれだけの動作で、この場の空気が氷点下まで下がったかのように冷たく、鋭利なものに変わった。
「……っ!?」
 思わず腰に吊るしていた装飾の派手な短剣に手を伸ばした女は、宝石の散らばる柄に指を這わせつつ、その男を見据えた。誰だか知らないが、もしや敵対しようとしているのではなかろうか。ならば命令(・・)どおり破壊すべし。
 素早く短剣を抜いて、ゆったりとした動作で振り向き始めた男に合わせ、体の正面に構える。そして……
「っあ、あんた……まさか!」
 神が特別にお作りになったと言わんばかりの美貌に、疲れた翳りを載せたまま振り向いた男―――クレメント・ルソーのそれを見た女は、愕然としてその名を叫んだ。
「アハト! アハトなのか!?」

 残された人間の残骸に浮かんだもの―――それは何とも形容しがたい、愛憎半ばするものだった。

「……久しぶりだな、フィア。元気にしていたか」
 相手を労わるにしては感情の籠らない声を発色の良い唇から漏らしたクレメント―――否、アハトと呼ばれた男は、両手首にはめられた繋がっていない電子枷を煩わしそうにちゃらちゃらと鳴らして、驚愕の色をさしている女の自分と似た顔を見つめた。
「まぁ、今でもこんな派手なことをする君なら、まだまだ元気だろうけれど―――」
「ロンドンに何しにきたのさ、臆病者」
 アハトの言葉を遮るようにして、女―――フィアは嘲笑を含ませた声で言う。無駄を感じさせない動作で腕を組むと、探るような視線でアハトの体を嘗め回す。そして奥のアグライアへと視線を移した。
「ふーん、今度はそのメスブタとデキてるわけ? かつての罪滅ぼしかい? それともただハッピーになるため?」
「君の口は相変わらずおしゃべりだな」
 電子枷を外すことを諦めたのか、無防備に腕をたらしたアハトは、懐かしむような響きを載せて呟いた。本来電子枷は機械人間の動きを封じるものであり、立つことすらままならぬはずなのだが、アハトの足はしっかりと立っていて、機械の合成声に微塵の震えも無い。
「なるほど、あの方≠フ言う通りか。まさかあんた、あたい達にたてつくつもり?」
「……」
 その言葉に背後のアグライアをちらりと盗み見たアハトは、電子枷を背後に向ける。そして無言かのように思わせて、小さく唇を動かした。
「外してください」
「え?」
 同じく小声で返してくれた相手の賢い頭脳を心で褒め称えつつ、アハト―――クレメントは今にも逃げようとしている囚人達に鋭い視線で牽制して、言葉を続ける。
「外してください、これ。じゃないと私はあの人に対抗できません。他の人たちも逃がしてしまいますよ」
「……」
 相手の表情は伺えないが、どうやら迷っているようだ。クレメントは黙ってフィアを見据えつつ、早くと急かすつもりで手首を近づける。このままでは「力」すら使えず、彼女に殲滅させられてしまう……
「……わかったわ」
 程なくして、アグライアの小さい呟きを聞き取れた。
 直後に聴覚センサーで感じるだろう電子枷の開錠音を期待して―――後悔した。何故か。……聞こえたのがチャキ、という金属音だったからだ。
「直ちに武器をして投降なさい、強硬派。貴方を器物損害、脱獄の手引きをした現行犯で逮捕するわ!」
「な……っ」
 腕を後ろに向けたままの格好のクレメントの隣に、勇ましくもS&WリヴォルバーМ19の銃口を襲撃者に向けた死刑宣告人(エクセキューショナー)≠ェ躍り出る。機械人間と敵対する人類の鏡ともいえるその姿だったが、現状ではこの状況を悪化させるだけに過ぎない。クレメントは慌ててアグライアをフィアの視線から隠すよう前に一歩出た。
「いけません、貴方じゃ到底敵わない! 早くこれを外して逃げてください!」
「敵わないですって? 馬鹿にしないで! これでも私は―――」
 アグライアも長身だが、それ以上に背の高い目の前の男の肩越しに、標的が見えないまま(・・・・・・)アグライアは照準を決める。
「射撃の腕は超一流なの」
 そう宣告するのと同時、発砲した―――標的の額に向けて。
「―――っ!?」
 少しの狂いも無く自らの額に飛んできた金属の死神は、機械人間の卓越された反射神経でなければ避けられることはほぼ不可能だったであろう。それでも側方に飛びずさったフィアの頬に赤い線を走らせた。
「まだまだ」
「何っ!?」
 何時の間に現れたのだろうか。人間にしては驚くべき俊足でクレメントの前に走り出し、今度は心機能装置を照準して、アグライアは躊躇無くトリガーを引く。吐き出された弾丸はもう一度フィアの生命を奪おうと死神の鎌を振るが、今度は完全にフィアはそれを跳躍することにより避けた。慣れればなんてことの無いことである。
「はっ、甘いよあんた!」
「そっちこそ」
 揶揄するようなフィアの言葉に、アグライアの口角が勝ち誇ったように上がった。
 その直後である。機械人間の身体がえびぞりになったのは。
「―――ッ!」
 避けたはずの弾丸が自分の背に命中したと理解したときには、床が驚く程の勢いで近づいている。急いで両足を向けるが、脚部のバランサーの許容範囲ぎりぎりだったのだろうか。着地と同時に足に力を込めなければ床を滑ってしまっていただろう。
「馬鹿な、跳弾だと!?」
 壁を利用した跳弾―――しかも自分が避ける方向まで計算したかのような、機械人間でもそうそう真似できない正確さで、見事背後から心機能装置の真上の位置を打ってみせたのだ。銃弾でも耐えられる人工筋肉だったからこそ助かったものの、同じところを立て続けに狙われてはきっと壊されてしまう。
「そうよ(イエス)。これが私の実力なの、わかった? 強硬派」
「……わかったよ。でも甘いのは変わらないね」
 女は溜息をついたのだろうか。唇から漏れた呼気は面倒くさげであった。手袋をした手を持ち上げると、後頭部で長い髪を括っているゴム―――否、金属の輪に手をかける。
「ただ、あんたはあたいの真の力が見えていないのさ。喜びな、冥土の土産に良いもん見せたげるよ」
「―――っいけない! 下がってレディ・アグライア!」
 その動作を見た途端、今まで行動をとるにもとれなかったクレメントが声を荒げた。しかし相変わらず銃を向けている死刑宣告人(エクセキューショナー)≠フ耳には届いていたのだが、彼女はその警告どおりに動きはしなかった。クレメントは急いで彼女に駆け寄ろうとするが、それよりも彼の恐れた事態が始まる方が、早かった。
 キュイーン、と耳鳴りにも似た機械音が響いて、消える―――女が髪を止めていた金属の輪を外したのだ。重力に従い零れ落ちた髪は、今にも床につきそうなほど長く、美しく靡いている。
 しかしその姿は人間の本能を脅かす何かを持っていた。何故なら……
「出でよ、我が愛すべき悪魔の使者よ……我が主、災厄の箱(パンドラ)の番人ゼウスに付き従うべし。火炎の使者(ヌル・フィア)#ュ動開始(ボックスオープン)」
 開かれていない唇から漏れたのかはわからないが、確かに聞こえたその声は届かない高い場所にいる―――それはまるで神のようであったからだ。
 確かにそこにいたのはあのフィアとかいう女のはずだった。栗色の冷酷な瞳も、大人びた顔も変わらない。しかし肩甲骨から突き出した黒い骨のような棒が三本、両方合わせ合計六本のそれに薄い黒の膜が張られている。あたかも悪魔のような羽だ。しかもそれは人工的に作られたものだと一目でわかるのに、この世のものでない雰囲気を纏っている。異型なそれの間でゆらりと黒髪が妖しく揺れるたび、ぞくりとアグライアの体の底から恐怖が湧き上がった。
 何故恐ろしいか。わからない。
 けど……逃げたい!
「何……これ……っ」
「捕まってくださいレディ・アグライア!」
 もしクレメントが彼女を捕らえて後退してなければ、女だった人物の折れた腕から吐き出された炎により、全身を焼き尽くされていただろう。しかし力が出ない割にはしっかりとした腕に抱きすくめられても、アグライアは震える唇から、声にならない音を紡ぎだす。ガチャ、と手から銃が滑り落ちた。
「ぇ……や……っ!」
「……っ」
 機械人間である囚人達ですら、この機を逃さんとばかりに逃げ出そうとするが、足が震えるほど恐れているというのに、それ以下と見下される人間で恐れないはずが無いだろう。未知な恐怖に体に力が入っていないアグライアを背で庇い、唯一恐れていない瞳で女を見上げた。
「……フィア、やめるんだ」
「何で? あんたにやめろっていわれても、あたいがやめる筋合いはないんだけど」
 アハトの静止にも、フィアは揶揄するような含みを混ぜて、もう一度繋がった腕をアハトに向ける。腕の中に備えられた火炎放射器が火を噴く前に、とアハトはその前に手を掲げた。
「やめておくんだ。私を壊しても、君達に何の利益もない」
「利益? そりゃ利益なんてないだろうさ」
 鼻で笑うようなフィアの声には、戸惑いが全く感じられなかった。それどころかこの状況を楽しんでいるようにも見受けられる。
「だけど損はあるんだよ―――妨害は実力で潰せって言うじゃん」
 言葉が言い終わると同時、ガコンと再び腕が折れた。中から無慈悲に飛び出してきたノズルから、火炎放射が出る前にアハトはアグライアの腕と銃を取ると、側方に飛んだ。しかしまるでそれを予測していたかのように追ってくるフィアの攻撃。かろうじて逃げてはいるが劣勢だということは火を見るより明らかだ。
「……クッ!」
 アグライアを庇いつつも背に当たった固い感触。それが壁だと気付いたときには、アハトとアグライアに死の予告が向けられていた。
 南無三。もう……終わりか。何故か異様な程に冷静な思考がそんなことを告げる。
「さようなら、アハト……兄さん(・・・)にはあたいから報告しておくよ」
 フィアの声に生命の終わりを人間の残骸でアハトが悟ったとき―――電子音が耳朶を打った。

NEXT