次第に強くなっていた雨の音だけが周りに響いていた。しかし雨に濡れるのも構わず、少しばかり滑稽な格好をした美しい男だけがゆっくりとした足取りで歩いている。それは傘を持っていないという理由もあるだろうが、雨などという小さなものには気をとられない―――そんな高貴な雰囲気を纏う姿は、何かを探すような視線を辺りに送っていた。
「……おや、お出ましですね」
 皆が車を乗り捨てたため、滅多に車が走らない広い道路に一人、美しい男―――クレメントは、向けられたライフルの銃口を見て呟く。人っこ一人いなくなった道路へいきなり脇路地から現れた男女二人にも恐れをなしていないようだ。実質恐れもない平板な声で彼は警告を飛ばした。
「一応警告いたします。一分だけ時間を差し上げますからその間に武装解除し、投降してください。それなら貴方達を破壊するだなんてことはいたしません。約束しましょう」
「……貴様、やはり同属だな?」
 しかしせっかくのクレメントの警告を無視したのは、金髪を短く刈り上げた長身の男だった。トリガーに指をかけ、プラスチックで出来た瞳を鋭くクレメントに向ける。
「同属とは、どのような意味でして?」
「貴様も機械人間だろう、何故人間を助けおれたちの邪魔をする?」
「ああ……確かに私機械人間ですよ。良くお分かりになりましたね?」
「馬鹿にするな、俺たちのセンサーが人間と機械人間(どうぞく)を分けられない訳無いだろう」
「……そうでした」
 ゆっくりと腕を組み気だるげに答えたクレメントは、重い溜息をついた。この様子だと、大人しく投降してくれるつもりではないらしい。当たり前と言っては当たり前なのだが、出来れば物騒なことをしたくはない。
 だがそんなクレメントの思いを感じ取らなかったもう一人の、機械人間専用の検索用片眼鏡(サーチモードグラス)―――相手の機種や武器の詳細を短時間で調べ上げる、戦闘において在るか否かで勝敗が決まるといわれるまでの必需品―――をつけた女が、背筋が凍るようなアルトで脅す。
「言っておくけど、あんた。あたし達の邪魔をするようなら、やりたかないけどあんたも破壊するよ」
「……それは是非とも御免被りたいものです。私、実は子供を二人抱えておりまして、私がいなくなるとそれはもう二人がうるさく泣き喚くのですよ。止めておかれた方が賢明ですね」
 本人達がいたら間違いなく「斬殺、銃殺、呪殺、引き殺しのどれがいい?」と笑顔で言われてしまいそうな台詞を言ったクレメントに、ピクンと女の肩が動く。そして次の瞬間、金髪の素早い静止が無ければクレメントの首は飛んでいたかもしれない―――
「ふざけんなっ! あんた、何で同属の癖に人間に手なんて貸すんだ!」
「それはいかがな意味で? レディ」
 金髪に羽交い絞めにされた女の手を覆い被せるよう突き出た幅広の剣を、今にも自分の首は飛んだかもしれないというのに、微塵の驚きも恐怖も浮かべないポーカーフェイスでクレメントは見やりつつ、キザったらしい動きで前髪を払いのけた。だが不幸なことに何処か薄い苛立ちも含ませた言葉は、思いのほか女の怒りを買ったらしい。金髪の静止すら気にしないように、羽交い絞めされた状態から暴れだし始める。
「あんたは人間の味方かよ! 人間があたし達にしたこと、知らないわけじゃないんだろう! あんたの機種は知らないけど、あんたはそのことについて人間に怒りを感じないの!? よりにもよって人間に手ぇ貸すなんざ……機械人間の恥だろ!」
「……はて、味方……」
 自らの髪に指を絡ませたところで制止したクレメントは、気にかかる言葉を小さく復唱する。そしてその後に漏れたのは、自嘲のような笑い声だった。それはまるで地獄から這い上がったような悪魔の声―――
「……味方、か……私に味方なんて……おりませんよ、この世には」
「な、なら何で人間に手を貸すんだよ!」
 風貌にそぐわぬ笑い声に一瞬怯んだ女は、感情のままに叫んだ。実際理解しかねる。味方でないというのなら何故機械人間の憎むべき宿敵である人類なんぞに手を貸すのか……
「あんたおかしーんじゃないのか!?」
「―――時間切れです」
 半ば狂乱気味に続けて叫んだ女の言葉は、後頭部に手をかけたクレメントにより完全に無視された。
「私は申し上げたはずです……一分だけ、時間を差し上げます、と。時間切れです……非常に残念だ……投降すれば、まだ助けて差し上げられたのに……」
「……何だと?」
 悲しげにそう言ったクレメントに、今まで静寂を守っていた金髪が不思議そうに口を開く。助けて差し上げられた―――つまりこの男は、我らと敵対するということか? 最高の技術で作り上げられたこの世界で最高の権威と、こいつは戦うと言っているのだろうか?
「……面白い、受けてたとうじゃないか……卑しいブタの身分に身を落とした同属めが!」
 戦意を露にしている女から体を離すと、金髪は腰に下げていたサーベルを抜いた。ここまできて人間(かちく)の手助けをするような同属に壊されたとあれば、機械人形の恥である。そしてそんな不埒で弱小な輩は世界から取り除くべきだ。誇り高き精神を持つ金髪は、サーベルを構えつつ、機体から人間でいう殺気を醸し出す。
 しかし、弱小な輩は恐怖のない哀れむような声で、再び言葉を紡いだ。
「……本当に、残念です」
「―――っ」
 まだ言うかこの男は。
 罵倒を浴びせかけようとした金髪の口は、最初の音の形で固まった。代わりに息を呑む音が意外にも大きく響いた。
クレメントが後頭部についていたパレットを、妙な機械音をさせて外したのだ。キュイーンと耳を塞ぎたくなるような音が響き、そして消えた。支えの無くなった長い黒髪は重力によって、背に沿うようにふわりと流れ落ちる。そしていつの間にか閉じられていた瞳が、再度ゆっくり開かれ始めた。
 それだけなら改造され人間より何倍も強い力を得ている機械人間の、恐れを煽ることは無かったはずだ―――だが確実に今、世界一の技術で作られた金髪と、隣で構えていた女もこの姿に驚愕交じりの恐れをその顔に表していた。
 何故だ。何が恐いのだ。
 それは神により特別に造られたとしか言いようのない美貌の所為だったのかもしれない。
 それは再び長い睫毛の間で垣間見えた紫紺の瞳が強く冷たい光を帯びていた所為だったのかもしれない。
 あるいは―――
「出でし翼は我が罪の刻印……されど我が罪災厄の箱(パンドラ)の番人ゼウスによりて消え失せし。氷の破壊神(ヌル・アハト)#ュ動開始(ボックスオープン)」
 ―――開けてはならない何かが、何かから溢れたという事実を本能で感じ取ったからだろうか。
「な、何なんだよ……っこれは!」
 男は唇を動かしていないはずなのに、確かに何百人もの人間が同時に呟いたような声は脳内を揺さぶるように響いた。
勝気な女の怯えた声で、金髪の意識は遠いところから現実に戻される。しかしその後これほど後悔したことはない―――出来れば戻して欲しくは無かった、と。思わずサーベルを持つ手がカタカタと音をたて震え始める。それは機械人間の中に埋め込まれている微かな人間の残骸が、その姿に恐れたのかもしれない。
 降りしきる雨の中にいたのは一人の男だった。
 顎まで伸びた前髪の下中性的な顔と紫紺の瞳がこちらを見つめている。後ろで長い黒髪を靡かせ、相変わらず滑稽な組み合わせの服を着ている。それはたった今までそこにいた男と共通するものだ―――背中に生えた金属の板を除けば。
「ぁ……っ」
 それだけしか変わらないというのに、この全てを跪けそうな程の威圧感は何だ…!?
 尻餅をつきそうになる自分をおさえ、笑い始めた膝に力を込めた。だがそれも上手く出来ずに、妙な体勢で強がるという不恰好な形に終わる。しかしそんなことにかまってはいられなかった。隣では女が先程の戦意は何処へやら、自分以上に震え、我が身を抱きしめている。肌に触れる空気が刃物のように鋭く冷たい。
 男の背中に生えた合計十二枚の金属の両翼―――あれが異質のモノだった。微かに動くたび、金属同士が重なり嫌な音を立てる。それからは不気味なコードが顔を出していたり、本物らしい羽毛が金属羽の先についていたりと、美しいと形容するには無理があったが、しかしまるで天使になりかけの堕天使のような姿でもある。
 何故悪魔に見えないのだろう―――金髪は自問して、すぐに理解することになる。
 あまりにもこちらを見つめる紫紺の瞳が優しすぎるからだ。まるで全ての罪を赦す様な慈愛を含む寛容な瞳。それを誰が悪魔と例えられようか……
「……私の姿は、恐いですか……?」
 だが異質の存在に恐怖は拭えなかった。男の問いに、二人共素直に何度も頷いてしまう。
 それに男は何を思ったのか、薄桃の唇で曖昧な柔らかい笑みを浮かべる。
「そうですか……すみません、私はこう(・・)なると……あまり力の加減が出来ません故、先にお詫び申し上げます」
 悲しそうに目を伏せ言う男に、二人は何も答えられなかった。先程まであんなに強がっていたのに、今では形勢逆転―――家畜に身分を落とした男に抗えない恐怖を持たされている。
「まず私は、心機能装置は破壊いたしません。それだけはお約束いたしましょう……貴方達が無駄な抵抗をしなければ」
「……何、だと……?」
 この男は正気か?
 怯えを大量に含んだ女の強化プラスチックの瞳の中、訝しげに小さく何かが光る。思わず喘ぎ混じりの声が溢れてしまった。何者も赦す、だが恐怖は与えるという姿になって、我々を破壊しない……何が目的だ?
「私が求めているのは、制御(マスター)チップです……それを壊せば、私はもう貴方達に用はありません。後は我が道に入らぬようお気をつけいただければ、もう二度と敵対は致しませんでしょう」
 この男が言う制御(マスター)チップ―――それは機械人間の心機能装置の外側に張り付いた小さな一センチ四方のチップのことだ。だが同時に深い意味を持たないチップでもある。何のために存在するのか、何の効果をもたらすのか、というのは機械人間の自分でもわかっていないのが事実だ。それを壊してこの男に何の利益があるのだろうか……?
 しかし主人の意志とは関係なく検索用片眼鏡(サーチモードグラス)は先程からキュインキュインと五月蝿く何かを探索しているようだった。だが女には結果が出るまでそれが知らされることはない。自分自身で考えなくてはいけない。いつもならすでに答えがはじき出されているはずなのに。どうやら調子がおかしいようだ。帰ったらメンテナンスをしなければ―――無事に帰れるのかもしれないのだから!
「……解せねぇな、そんな理由で……」
 不思議なことばかりをほざいてくれたおかげか、恐怖が少し薄れた頭が希望を見出し始めていた女の隣で、金髪が低く呻いた。サーベルを持つ手は未だ微かに震えていたが、その目はもう怯えてはいなかった。所詮ブタが我ら機械人間に勝てるはずもなかろう―――そんな思考がひしひしと気配となって伝わってくる。メインルーチンが勝算を吐き出したのだろうか。
「我らが……我らが機械人間が負けてたまるものか!」
「駄目だ! ま、待てっ!」
 立場が逆転した。先程金髪に取り押さえられていた女が、今度は逆に男に向かって走り出した金髪を押さえようとしている。だが機械人間といえど男女に違いは存在する―――金髪は女の手をすり抜け、男の脳天にサーベルを振り下ろした。
 戦いに情熱を燃やすタイプはよくいる。また自らの誇りをかけ進んで未知なる戦いに挑むものも。この金髪は、まさにそんな男だったということを、女は失念していた―――同時に、検索用片眼鏡が探索を終了する。
「―――何っ!?」
「……抵抗、なさいますか……」
 結果をはじき出した検索用眼鏡越しに、女はその光景を見て、文字通り開いた口が塞がらなかった。
 同じように驚いている当事者の金髪はあれでも少しは名の通った強硬派で、剣の腕もそこそこである。また何より彼は主に上腕部の力を極限まで強く改造していて、それから繰り出される一撃は同じ機械人間でも判断できるかどうかのスピードに、戦車さえ真っ二つにされてしまう程の威力だ。なのにあんなか細い身体が、渾身の一撃を片手で防いでいるとはどういうことか!?
「非常に残念です……」
 また、両翼が白色に光ったと思われた次の瞬間後も、理解しがたいことだった。
「ぅ、ぁあっ、ぁアアっ!」
「……!?」
 パキパキ、と薄い何かが割れる音と、金髪の甲高い悲鳴を聴覚センサーが拾ったときには、サーベルと金髪の腕はその場に存在してはいなかった―――まるで彫刻が崩れ去ったかのように、消えた。
 機械人間とはいえ、さほど敏感ではないが、伝達コードを覆うようにして皮下センサーがある。それが途切れたり、傷ついたりすれば、気にするにも値しない程の小さな痛みが存在すると聞いたことがある。だが今金髪の両肩の中の伝達コードは、何故か先端が凍って剥き出しになっていた。人間よりは痛みを感じないとは推測できるが、それなりの痛みに苛まれているのだろう。現に地面に横たわって悶える金髪は女の目の前で、今まで聞いたことも無いような悲鳴を上げている―――だがその事実にいまいち確信を持てないのは今まで修理以外、自分達が傷つくような事態が、初起動後なかったからであった。
「……痛いですか?」
 男は自分でやったにもかかわらず、それすらも哀れむような声で話しかけた。何故か薄く白いものがこびりつく細い指をゆっくりとした動作で下ろすと、揺れ動く紫紺の瞳で金髪を見つめる。
「ですがそれぐらいなら、修理すれば何とかなるでしょう。幸運ですね、ミスタ・サーベルマン……さぁ、投降なさいますか?」
「……っぐ、き……さま……っ!」
「あ、あ……っ!」
 その様子に女が、ついにぺたんと尻餅をついた。否、正確にいえばやっと見ることの出来た、先程はじき出された探索結果にだ。
「だ、だって……え、ヌル……アハ―――!?」
 信じられない、まさかこの男は―――
 そんな女の疑問は、深い愛をすり抜け恐怖すらも彷彿とさせる柔らかい笑みに、制される。
「投降なさい、お二方……貴方達はもう、私の手からは逃げることは不可能です。すでに私の手の上で踊っているのですよ……」
 動かすたびにパリパリと何かがひび割れるような音をたせる指を、今度は怯えた顔を晒す女に向けて、男は静かに言った。
「私は申し上げました……無駄な抵抗をしなければ、心機能装置は壊したりなど致しません。大人しく投降なさってください」
 悪魔が契約を促しているのか。それとも天使が死刑宣告をしているのか。慈愛溢れる容貌から伝わるのは、自らの堕落のみだ。そんな男の姿に怯えに怯えきった女が、ついに投降をしようと、手を覆っていた短剣を機体内に戻し、恐る恐る両手をあげる―――だが、そんな女を誇り高き同属が許すはずも無かった。
「―――っ!」
 喉を反らし空を仰いだ女の口から、大量のどす黒いオイルが流れ始める。心機能装置が破壊され、中の循環が上手く出来なくなり、出口を求めたオイルが溢れ出たためだった。続いてゴン、と思い何かが床に横たわる不気味な音。
「……」
 しかし、それを見ていた男の顔は何一つ変わらなかった。相変わらず柔らかい紫紺の瞳で、口の中に仕込まれた短い矢を使い、仲間を破壊した金髪を見下ろしている。やっと痛みに慣れたのか、いつの間にか上体を起こしていた金髪はその男の顔を見て、意外そうに口笛を吹いた。
「ほぅ、怒りはしないんだな……」
「……何故、怒る必要があるのです?」
 まるで怒るという感情を知らぬと言いたげな、雨に濡れた顔で男は答える。その後ちらりと女の横たわったきりもう起き上がることの無い損害機体(スクラップ)を見たが、何事も無かったかのようにすぐ視線を金髪に戻した。
「俺は仲間を破壊したんだぜ? 同属として、許せない、と思わないのか?」
「貴方は許されて欲しくないのですか? ならば、私以外の誰かにお頼みするべきでしたね」
「そんなことは一言も言ってない。……同属を目の前で破壊されたことに関しちゃ、どう思う」
「……よろしいんではないですか?」
 慈愛溢れる男は、同属の死に対して人間のように何も頓着していないようだ―――頬に張り付く黒髪を、相変わらず何かがこびりついている指で払うと、そのまま金髪にとっては苛立つだけしかない言葉を続ける。
「貴方は貴方のすべきことをした―――それだけでしょう。私は、貴方を責める権利を持ち合わせていません。……ではそんな私を、貴方はどう思われますか?」
「よろしいんじゃねーの?」
 苛立ちをおさえからかうような金髪の声に、つい先刻までの怯えは微塵にも感じられなかった。
 大体先程のも少し油断をしただけだ。まさか見えない奇術でもあるまい。何がなんだか知らないが、所詮人間に手を貸すブタに、誇り高い機械人間である自分が負けるはずがない!
「それより決着をつけようぜ! ブタ!」
 ―――もしこの時、金髪が女の破壊最前に知った探索結果を共に見ていたなら、こんな浅はかな行動はとらなかったはずだ。
 金髪は口の中にもう一本放電用の矢を用意すると、両腕のない機体のバランスをとりつつ、男に狙いを定めた。矢のスピードはあの破壊した女すら見切れない。否、同属でも見切れる者は少ないだろう。そんな矢を家畜が避けられる可能性など万に一つもない。しかも放電というのは、強化ゴムの筋肉には効果はないが、心機能装置などには大ダメージを与えることが出来る。ボディを壊さず且つ性格に相手を仕留める。これで家畜如きなど簡単に駆除出来よう―――
 だが、金髪の行動は、再び両翼が白色に光る前に行われることはかなわなかった。
「遅いですよ」
 男の気だるげな声を確認した時には、目の前に黒い闇が揺れていた。これは地獄だろうか―――死にはしないはずの機体を司るメインルーチンが、一瞬だけそんな愚かな答えをはじき出した。
「―――ぁ……」
 次に気付いたのは、心機能装置の丁度上を位置した人工皮膚の場所を男の手が覆い、そこから白い何かが這うように広がっているということだった。そしてそれは確実に心機能装置を蝕み始めている。のに、もはや痛みすら感じられない。ただ機体の奥底から冷えていく感触がゆっくりと機体を侵食している―――そんな陳腐な表現しか出来なかった。
「貴方はここで破壊させていただきます……さようなら、ミスタ・サーベルマン」
「お……ま、え……なに……もの……?」
 パキパキ、という氷がひび割れるような音を耳にしつつ、最後の力を振り絞って、金髪はノイズ交じりの声を出して問う。もう戦う意志など残っていなかった。圧倒的な強さの前には屈するしかない―――その教えは万国共通らしい。だが知りたいのだ。この異常な強さは、この自分でも見切れぬ攻撃を仕掛けるこの男は、一体何者なのだ?
「……私、ですか?」
 そんな金髪の頬に凍ったように冷えた掌を添え、自らも膝立ちになる。人間のように濁り始めたプラスチックの瞳―――実際には濁っているわけではなく、視覚センサーを覆っていた透明のオイルが、循環出来なくなったことにより乾き、水分を必要とする水晶センサーが壊れ始めている証拠である―――を見つめると、男なのだが女神とも形容可能な慈愛溢れる笑みで、静かに言葉を紡いだ。
「私はエゴイストですよ―――貴方達と同じ、ね」
「……ぉな……じ……?」
「ええ……」
 すでに視覚センサーは自らの仕事をこなすことが不可能となっていたが、そのおかげでか敏感になっている聴覚センサーは、柔らかい男の声を聞くことが出来た。今この男はどんな表情をしているのだろうか、そして自分は一体どんな情けない顔をしているのだろうか……?
すでに顔の人工筋肉の動きすら掴めない金髪の不思議そうな声に、男はゆっくり含み利かせるよう、その耳に更新を寄せると囁いた。
「私達は皆、自分の思うことを貫くために生きている―――私も、貴方も……そんなエゴイストなのですよ。だから、争いを起こしてしまう……そして私は誰の味方でもない。私自身の味方で、私の意志を貫くだけ……貴方達が今まで強硬派と呼ばれてまで、してきた行動と同じように……無意味だと思いませんか? 争って無くなるぐらいなら、最初から望まなければ良いのに……」
 では、今まで自分達のしてきたことは、奪ってきた命は、全て無意味だったのか……?
 そんな疑問を口にしたい思いで沢山だったが、金髪はもう残り少ない自分の活動時間を、もっとも有意義なことに使うことにした。渾身の力を振り絞り、もはやノイズの方が大きい声で呟きだす。
「な、ま……ぇ……」
 思いは女神に届いたようだ―――男がどんな顔をしたかはわからなかったが、金髪はその声だけは他の出力を最小限にまで下げたおかげで、何処か遠くで聞き取ることが出来た。
「よろしい。覚えておきなさい―――我が名はヌル・アハト。パンドラ企画≠フ希望≠ナす」
 意志の強いその言葉を最後に、金髪は薄く笑ったかと思うと、全ての活動を停止させた。再び、雨の音だけが辺りに響き始める。
「……」
 男―――否、クレメントの背中にもう両翼は生えていなかった。まるで溶けたようにあっというまに消えて言ったそれが、生えていた痕を黒のコートに残している。だがそれを気にしない様子でクレメントは、目の前の仲間に破壊された女と、左胸の部分が崩れ去ったように穴の開いている男を隣同士に横たわらせて、静かに立ち上がった。そして鼠色の暗い空を仰ぎ見る。
「……私は、エゴイストだ……」
 今度は自分に言い聞かせるようそう呟いたクレメントの横顔を流れる雫。果たしてそれは雨なのか涙なのか。それは本人でなければ定かではない―――
「争わないことが出来るのなら、人は皆争いはしない……皆、自分の意志を貫きたいだけだ……勿論、私も」
 近くの瓦礫の上に腰を下ろすと、クレメントは何処か自嘲交じりで呟いた。それは死んでいった同属たちに話しかけているのかもしれない。返事は無くとも、そのまま言葉を続ける。
「確かに無意味かもしれない……けれど、どれが正しいかなんて、決まってもいない、決めるのも愚かなこの世界で……正義は存在しない。なら我々エゴイストの中で勝ち残った者がルールを作り、世界を引っ張っていくべきだとは思わないか……?」
 こびりついていた白いものが、いつの間にか取れた指を空に向けて広げた。降りしきる雨の遮りにもならなかったが、構わず美貌は形の良い唇を動かす。
「人間、そうやって生きてきたんだ……我々が加わっても難しいことじゃない。まずは我々が加わっても不自然ではない世界を作らなくてはいけないな……」
 寂しいのか切ないのか。色に表すなら深い青のような口元の歪みと表情を浮かべ、クレメントは懐かしそうに紫紺の瞳を細めた。そして最後に愛しそうにこう呟いた。
「そうなんだろう? カミラ」
 そんな男の最後の罪を流すべくか、雨は止む様子を見せなかった。

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