※

 そこには真っ暗闇が広がっていた。すべてを凍りつくすような真っ暗闇。
 それを靴音高く割って現れたのは、長い黒髪を揺らす白いスーツを着た人物だった。まるで闇に天使が舞い降りたような、美貌を振り撒きつつ一定的に歩を進める。まるでこの広がる暗闇の中目的地がちゃんと存在するかのように。
 不意に天使≠ェ足を止めた。そして肌色に消した唇に指を這わしつつ、綺麗な弧を描かせ口を開く。
「……ねぇ、いる?」
「ああ」
 問いかけに闇が短く答えた。だがそれに驚いた素振りも無く、天使≠ヘただ簡潔に述べた。
「わかるでしょ?」
「ああ」
「迎えはあげたけど……どうするのさ、あいつ……壊すの?」
「……」
 闇は暫く答えなかった。その様子に天使≠ヘ肩を竦め、答えに期待しても仕方ないと踵を返した。しかしふと、何かが聞こえた気がして、振り返る。
「…何か言った?」
「ああ」
「壊すの?」
 何処か楽しげな天使≠フ声に、闇は答えた。
「……ああ」

          ※

「レディ、一つお聞きしたいのですがね」
 暫く走行したところで、パトカーの後部座席の真ん中に座っていたクレメントが不意に口を開いた。
「私はアグライア・フランク。アグライアで良いわ。で、聞きたいことって?」
「素敵な名前ですね。……ああ、名乗らずに失礼致しました、私の名はクレメント。クレメント・ルソー。クレミーで構いませんよ。……それでレディ・アグライア。昨日こちらでテロがあったとお聞きしたのですが本当なのですか?」
「……」
 相手の言葉にバックミラーを覗き込んだクレメントでなくてもわかるぐらいに、アグライアは怒りを露にした。一気にして氷点下に移動したかのように空気が冷たくなり、みるみるうちにハンドルを持つ手が力の入りすぎで白くなる。
「…………ええ、そうよ」
 暫くして感情のすべてを押し殺したような平板で、だが多少震えのある声が返ってきた。
「そうですか……出来ればで良いのですが、連行する前、そちらを見てはいけませんかね?」
「駄目よ」
 出来るだけ丁寧に言ったクレメントの言葉にも、アグライアは間髪いれず冷たく返す。しかし人ごみとテロでの車の渋滞のおかげでなかなか進まないことに、少なからずイラついているらしい。やや乱暴にハンドルを叩くという八つ当たりぶりを見せた。
「……そうですか」
 口元にどこか寂しげな歪みを見せ、クレメントはそれから喋らなくなった。
(……何なの、こいつら)
 アグライアは思わず小さく体を震わせてしまった。後部座席の三人の先程までの賑やかさは何処へやら、全く喋らなくなってしまったことに、逆に不気味さを覚えてしまったのだ。確かにあまり煩わしく喋ってほしくも無いのだが、それでもこうもだんまりだと、何か企みではあるのではないか、と疑ってしまう。今まで職業柄でたくさんの人々と関わったが、ここまで掴めない奴らは初めてだった。
「……」
 ちらりとバックミラーを一瞥し、食料の輸送車の後ろにオープンカーを連れたレッカー車がついてきていることを確認すると、アグライアは前を見た。そして硝子につく水滴に眉をひそめる。
「雨だわ……」
 誰とも無く小さく呟いて、今日傘を持ってきていないことを思い出した。最悪だ。確かに、朝思ったような大変な日になりそうだ、色んな意味で。
 そんな時だった。
「―――っ」
 最初に気だるげに顔を伏せていた金の美貌が、素早い動きで傘の柄を掴んで、弾かれたように顔を上げた。そして続くように狂犬を思わせる男の鋭い顔が自分の横の窓から外を見、最後に黒髪を揺らした男が後ろに振り返る。
「……どうしたのよ」
 やっぱりこいつら何か企んでるんだわ―――自分の油断を招いて逃亡をしようとしているかもしれない奴らの図には乗らない、とあくまでも冷静に、鋭い雰囲気を醸し出す団体に声をかけた。そして気付かれないように腰のホルスターに収まっている拳銃―――警告用の偽物だが―――を取り出し、何時でも警告を発せられるよう力をこめる。
 しかし返ってきた答えはアグライアの想像しえぬものだった。
「……レディ・アグライア。貴方、運転には自信がありますか?」
「い、いきなり何なの。答える筋合いなんて―――」
「良いから答えてください」
 拍子抜けしたアグライアの言葉を遮り、鋭い声が車内に響いた。今まで見てきたクレメントの姿からは考えられない覇気にビクリと肩を震わせると、それに気圧されるように、アグライアは小さく話し始める。
「い、一応あるわ……ライセンスもあるし…」
「それは良いですね。では―――思いっきり逃げて!」
 クレメントが叫んだのと、激しい爆音が耳の鼓膜を叩いたのはほぼ同時だった。
 いきなり頭を強打されたようなショックに見舞われ、一瞬視界がぼやけたが、その後すぐにバックミラー越しに景色を確認する。そこにあったのは、先刻まではなかったはずの広がるに広がった火の海だ。
「―――あ……」
 あまりのその様子に思わず震える声が漏れ、力をなくした手がハンドルを支えられなくなり、添えられるだけの形になってしまった。震える手に力が入らない。また最悪なことに石にでもタイヤをとられたのか、車体が大きく弧を描き曲がり始めている。それでも力は戻ってこない。
 駄目だ、もう……
「……危ない!」
 この時、後ろから痩身が身を乗り出しハンドルを支えなければ、このまま大きなビルに突っ込むところだったろう。放心状態にあったアグライアが我に返ったときは、ハンドルを握るクレメントの真剣な横顔が視界にうつる。
「俺はシニョリーナを迎えにいくぞ! 来いガートルード!」
「承知」
「御武運を祈りますよ、お二方!」
 未だ車は走行を続けているというのに、クレメントの言葉を背に、構わず残りの二人は窓から飛び出した。そしてそのスピードに負け三回ほど地面で前回って、そのまま受身を取り体勢を整えると同時に走り出す。向かう先は、炎に包まれているレッカー車だ。
「あ、危ないわ!」
「良いから貴方は前を見て運転をしてください! ドリフト駐車はもうごめんです!」
 今度はしっかりとハンドルを握り、だが目線をバックミラー越しに後ろの人物へやっているアグライアに一喝すると、身を乗り出した体勢からクレメントは助手席に滑り込む。
「あの二人なら大丈夫です、レディ・アグライア。それより私達は私達の身を守るべきではございませんか?」
「だ、だけど……っ」
 声を震わせるアグライアが気になっているのは、その二人だけのことではなかった。
 周りに広がっている火の海が、食糧を輸送していた運転手だけではなく、その周りを走っていた人々の命を奪い、今にも奪おうとしているのは容易に想像がつく。自分は警察官なのだ、自分の命を捨てでも人民の命を救うのは当たり前―――
「……まさか、感づかれたか」
 しかし正義感溢れる思考をかき消したのは、クレメントの小さな声だった。
「ちょ、何をするの!?」
「お願いします、早く走って!」
 何処か切羽詰ったようなクレメントの声が爆音で痺れていたアグライアの鼓膜を叩く。そのままシートベルトを足にきつく巻き、全開に広げた窓から痩身を乗り出したクレメントに、アグライアはまだ何かを言おうと口を開きかけたが、後部席の窓が割れた衝撃に、それは掻き消された。

「っひゃー、シニョリーナ、無事か?」
 爆発の際に破裂したらしい備え付けの消火用スプリンクラーから水を浴びたコンラッドは、炎の合間を縫うようにして愛車まで近づく。その後ろを警戒しながら同じように濡れ鼠になっているガートルードが続いた。
(……ん?)
 そこでコンラッドは思わず立ち止まり、自らの鼻腔をひくつかせる。何やら匂うのだ。良く嗅いだことのあるこのどこか美味しそうな匂いは、果たして何だったろうか…?
「急げ、コンラッド」
 だがその思考を中断させたのは、立ち止まった同行者を急かすようなガートルードの声だった。
(……後で考えりゃ、いっか)
 もともと面倒くさがりやのコンラッドは、その思考を後回しにし、再び歩を進めた。
 雨の中でも一向に消えることの無い炎の中のレッカー車にたどり着くと、それに繋がれた真っ赤なオープンカーをまるで愛娘を愛でるように撫で、レッカー車と繋いでる接続部品を外す。レッカー車の運転手はすでに避難をしたらしい。空っぽの運転席を確認してから、コンラッドはアグライアに奪われなかった合鍵を取り出し、辺りを忙しなく見回るガートルードに咆哮のような大声をかけた。
「誘爆を招く前に早く出ちまおう。乗れやガートルード!」
「ああ……」
 するりと猫のような動きで運転席に滑り込むと同時、エンジンをかけたコンラッドの言葉に、何処か後ろ髪引かれるような声で返したガートルードは、油断なく神経を張り巡らせつつ助手席についた。
「何だ、どうした?」
「……昨日のテロ、本日の爆発。貴様は―――ロスの碩学≠ニ呼ばれた天才は、これらをどう思う? 是非とも話を聞かせて欲しい」
「お前は人をおだてるのがうめぇなぁ……」
 ロスの碩学=\――ロス大学でずば抜けた才能を発揮し、博士号をいくつもとっているコンラッドは、同行者の言葉にほろ苦く笑うと、今まで楽しげだった瞳を鋭く光らせバックを開始する。
「今まで散々あンの悪魔のせいであぶねー目にあってきたが、それは全部トラブルメーカーが処構わずトラブルを作って俺たちが巻き込まれた事件だ……しかし今回ばかりは違う気がすんだ、おれぁよ」
「……というと?」
「ビンゴ、っつーこと」
「ほぅ、本命登場か」
「その通り(ザッツ・シュア)」
 シニョリーナ―――キャディラックの屋根を閉じつつ、コンラッドはにやりと笑った。天才と同じくそれを予想していたのか、ガートルードはさほど驚きもせず、同じように口元を不適に歪める。
 コンラッドの確実な運転技術で火の中から慎重に、だが素早く抜けきると、シニョリーナは随分先に行ってしまったパトカーを猛スピードで追いかけ始めた。車を捨て逃げた人々のおかげで障害物競走になりつつある道路を、本来ならばスピード違反で再び捕らえられる程の速さで走るシニョリーナは、逃げ惑う人々は火が起こした真っ赤な風としか思えなかっただろう。
「しかし、思ったより早く見つかったものだな……」
「待った、確信なんぞしてねぇぜ、俺は。可能性の話だ……まぁ―――」
「シックスナインズ、のだろう?」
「……まーな」
 ほぼ百パーセントに近い確立で相手を捕らえたことに、フッと目を閉じ薄く笑う美貌をちらりと一瞥して、台詞をとられたことに少し拗ねつつも、自信ありふれた狂犬のような顔を前方に戻す。
「奴の話じゃあれ≠ヘ近ければ近いほど、アンドロイドたちに影響を及ぼすらしいからな。問題は奴がそれに近づいて影響されないかだ、秘策はあるらしいが……それに知ってるか」
「何をだ」
 アンドロイド、という言葉に微かに憎悪の色を見せた表情を一瞬でかき消し、ガートルードはやっとコンラッドに顔を向けた。
「人間、デカイもんはデカ過ぎて、見てるが見ねぇふり関わらねぇふりってのは結構あるんだぜ。可愛い我が身が心配なんだろうよ? ましてや事情を知ってんのはおれたちぐれぇときた。じゃああれ≠どうこうできんのは誰だ?」
「…………あやつと関わったのが俺達の運のつきということか」
 事情を知らぬ者にはわからない会話を締めくくったのは、暫くした後のガートルードの溜息交じりの言葉だった。それにコンラッドは珍しく苦笑すると、開いた窓から外を伺うように身を乗り出し、胸ポケットから煙草を取り出し咥え、火をつける。
「ま、俺は生きる世界がありゃそれでいい。あ、あとイイ女と男、寝れるベッド」
「……貴様はやはりそちらの趣味があるのか?」
「可愛い男もまあ歓迎してやるよ。どうだガートルード? お前も結構―――」
「選べ。斬殺、射殺、呪殺、どれが良い」
「おーこわっ」
 美貌の怒りが頂点に達しかけているのを、ケラケラと笑って適当に流したコンラッドは、楽しそうに歪めた口元から、雨の降り続ける鼠色の空に向け紫煙を吐き出した。

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