第一幕 強硬派(ドロイダー)


 今日の朝の空は思わず眉を顰めるような鼠色の空だった。
 何となく、嫌な予感がした。これは女としての勘なのだが、今日は自分にとって大変な一日になるのではないか、と。
 そう考えながら、未だ救済作業を続ける倒壊した橋を車内から痛々しい視線をくれ、自分の仕事場であるロンドンの警察署に向かった。

 その日アグライア・フランクは、喫煙室においてあった新聞記事の一面に躍り出ている大きなゴシップ体に、密かな溜息をついた。
『暗躍強硬派 タワーブリッジで大規模テロ、死者数百人』
 騒ぎで知っていたとはいえ、正直朝から見たくない記事だ。濡れるのも構わず川の中に入り血だらけの子供が親を探し、女が泣き叫びながら夫の体を抱く写真などが掲載されている。涙腺の緩みを確かめるようなそれらの記事は、昨日の夜起こった事件について今の時点わかる限り詳しく書かれていた。そうとあれば一介の警察官として読まなくてはいけない。アグライアは無性に破りたくなる気持ちを精一杯抑え、その記事を読み始めた。
「……なんて酷い」
 読めば読むほど酷い様子に思わず眉を顰める。
事件の内容としては軍用の火薬が装備された時限爆弾が設置され、爆発したという仮説が今現在たっている。何処に設置されていたのかは不明だが、爆心地はテムズ川にかかる跳ね橋で、ロンドンの観光名所でもある「タワーブリッジ」を全壊出来て、また回りにも被害を及ばせる位置にあったらしい。今まで被害にあった他国の事件と全く同じ手口だ。こんなことをする奴らの気が知れない。多数の命を奪ってそんなに楽しいのだろうか…?
 思わず新聞を掴む手の力を強めたアグライアは、それでも最後まで読もうとぐっと唇を噛んで読破を続行した。
 この世界は、今や恐怖の真っ只中だ。
「アグライア」
 中ほどまで読み、すでに涙腺の緩みを十分なほどに確かめたアグライアの耳を叩いたのは、低い大人びた声だった。それに慌ててコシコシと涙を腕で乱暴に拭うと、取り繕ったような笑顔を、不意に現れた、柔らかそうに真っ直ぐ伸びている金髪の男に向ける。
「あ……フリードリヒ、おはよう」
「おはよ。うわ、朝から酷い顔。……君もそれを読んだんだね」
 そんな笑顔よりも目の異常の方を気にしたフリードリヒ―――フレデリック・モンゴメリーは、アグライアが持つ新聞記事に細めた目を落とし、翳りのある声でぽつりと呟いた。それにアグライアも目を戻すと何処か感情の無い人間のように呟く。
「……強硬派、か。随分酷いことしてくれるじゃない……」
「こんなの今までドイツだけかと思っていたら、ロンドンにまで……か。全く、奴らはどこまですれば気がすむんだ……」
 くしゃり、と新聞をアグライアは握りつぶした。その顔には復讐者のような怒りがまるまると表れていて。そんな隣に腰を下ろしたフリードリヒの顔も怒りとまではいかなくても、未知なる団体に友好的な表情を浮かべているわけでもない。非常に複雑な顔だった。
 この世には存在してはならない奴らだ―――小さい頃から「存在しちゃいけない奴はいない」と豪語してきたアグライアは、奴ら(・・)に対して常にこう思うのだ。悪魔のような計画から生まれた奴ら(・・)など地獄に堕ちてしまえと。
「私、あいつらが嫌いよ」
 ふとさりげなく、だが憎しみの炎をたぎらせアグライアは呟いた。イラついたように指を弄いながらまるで返事を待つかのような空白を過ごす。
「……知ってる」
 それに対してフリードリヒは何処か悲しげにだが彼本来の軽さを含めた、彼なりの優しい声を返した。しかしアグライアの怒りはそれだけでは到底なくならない。
「あんな奴ら……生きてる方がおかしいのよ!」
 備え付けの新聞ということも忘れたかのように―――実際忘れている―――ぐしゃぐしゃとアグライアは新聞を丸め、それをゴミ箱に勢い良く投げた。ついでにそれには怒りがこめられていて、発散される。
「……アグライア、君は今日検問だろう? そろそろ行った方がいいよ……」
 そんなアグライアの肩にそっと手を置き、宥めるような優しい声音でフリードリヒは耳元に囁いた。いつもこうして落ち込む彼女を慰める、いつもと変わらない慰め方だ。頭一つ分小さい目の前の小柄な同僚がコクリと小さく頷いたのを確認すると、そっと柔らかく笑う。
「あの事件のとこには僕と、トレシアで独自調査しよう……後で報告する」
「……ありがと、フリードリヒ」
 呟いた言葉は小さかったが、優しい金髪の同僚にはしっかりと届いた。
「どういたしまして」
 そう言うと肩から手を離し、「さ、仕事だ仕事だ」と誰とも無く呟くと、最後にアグライアの肩を軽くぽんと叩いてから、パチンと口説き用ウインク一つをプレゼントする。そのまま喫煙室から出て行ったフリードリヒをただ無言で後ろから眺めていたアグライアは、胸の前できゅっと手を握り、深呼吸をしてから後を追いかけるように喫煙室を後にした。

          ※

「暇ですねぇ……」
 左右に草原が広がる整備のしっかりされた道を真っ赤なオープンカーが走っていた。運転席に一人、助手席に一人、三人は入れる広い後部席に一人を乗せ、真っ赤な風のように人気のない道路を進み続ける。その後部席の高級そうな黒革シートに身を委ねている美青年は、言葉にもっとも相応しい高めの声で誰ともなく呟いた。
 その美青年の姿は少しばかり滑稽だった。ここは寒い地方とはいえ真夏で暑い中で立て襟のついた黒のコートを羽織っていて、またそれを肌蹴た中からはおそらくあまり日に焼けたことがないのだろう白い肌が白のタンクトップとコートの隙間から垣間見られる。寒いのか暑いのか理解不能な格好だ。それにアクセサリとしてなのか左耳に半透明の水色をした角柱のピアスをつけている。つけるなら両耳につけるべきだろうに。
 しかし艶やかな長い黒髪をうなじの少し上辺りでパレットで止め、顎辺りまで伸びた前髪を気だるそうに弄るその姿は何処か気高い美貌を感じさせた。ジーンズを纏う細くすらっと伸びた足は優雅に組まれ、先を見つめる中性的な顔立ちと伏し目がちの紫紺の瞳は妖艶といってもいいほどに美しい。まるで性別を持たない天使のようだ。二重の瞳を縁取る睫毛の影を頬に落とし、美青年は形の良い唇をもう一度開いた。
「非常につまらない……だから踊りなさい、ガートルード」
「断る」
 理不尽且つ我侭な要求をピシャリとはたいたのは、助手席に座るこちらもまた美貌溢れる男だ。
 緑が多く混じる肩下ほどまでの金髪を流れる風に弄ばせる男は、何故か大事そうに首を隠すような服と同じ色の黒傘を抱えていた。またもう一つ不可解なのは濃い碧眼の上までかかる前髪だけが黒く染められている。だがそれが似合い美しく映えるのだから美貌とは不思議なものである。
 男―――ガートルードはただでさえ険しい碧眼を更に細め、そちらに向きもせず低く冷たい言葉を投げかける。
「貴様の欲求に答える理由が見当たらん。踊るなら貴様が踊れ、道化師よ」
「それは残念ですね……貴方の美しい舞いが見たかったのに、非常に残念だ……」
 先程の言葉とは違い、残念という気持ちが全くあらわれていない言葉を道化師≠ヘ返した。しかしそれに答えてくるのは嘲笑交じりの声だ。
「ほざけ。貴様が踊るというのなら喜んで見ようではないか」
「貴方の願いには出来るだけ答えたいのですが道化師は皇帝がいないと踊れません……真に申し訳ありませんね」
 どうやらこの道化師≠フ言葉は自分には不利益と判断したら感情が籠らないらしい。申し訳ないという気持ちが皆無の相手の言葉に、ガートルードは口の中で小さく舌打ちをすると、関わらないのが得策と判断して大事そうに傘を抱えなおす。
 その様子を肩を竦めて見た道化師≠ヘ、「つまらない」と小さく呟くと、飽きた玩具から新しい玩具―――ガートルードから肩につくまで伸ばした髪を揺らす運転手に視線を移した。
「それではコンラッド、話を聞いていたでしょう? ……踊りなさい」
「お前俺のやってること見えてるか?」
 運転手―――コンラッドは、バックミラーにうつる道化師≠フ美しすぎるほどの笑みと言葉に、今まで片手運転だったのを几帳面に両手でハンドルを握りなおして、反論しつつも「俺は運転に集中しています」と背中での主張に専念した。
 コンラッドは、ここでは唯一まともな人間と言えよう。可笑しな組み合わせの服を着ているわけでも無く、黒い傘を大事そうに抱えているわけでも無い。何処か不良めいた容貌と、狂犬を思わせる鋭い深緑の瞳も然り、褐色がかった肌と二人に比べ男らしく鍛え上げられた身体は、また別の意味で美しい。野生的な美貌に添えるようにウェーブのかかっている少々薄黒の髪は好き放題に揺れ、少しは整えている様子を見せる無精ひげも妙に合っている。
 コンラッドの視線に気がついたのか、道化師≠ヘバックミラー越しにコンラッドを見つめ返すと、いかにも初めて気がつきましたという顔をしてみせた。
「おや、運転をなさっていましたか。それでは仕方ないですね」
「……」
 この男の目は今までの道のりをどうつしていたのだろう―――そんな目で見たいのを懸命に堪えたコンラッドはバックミラーから目を逸らすと、とりあえず標的からは逃れられたと気だるげな片手運転に戻す。
 しかし不意に思い出したように、コンラッドは暇そうに前髪で三つ編みをしていた道化師≠ノ声をかけた。
「クレメント。お前さんこっからどうするよ。あと少しで道が分かれるんだ」
「ふむ? ……それは素晴らしい、退屈な運命から逃れる分かれ道とはこのことか……」
 そこでやっと道化師=\――クレメントの美貌に楽しそうな笑みが浮かぶ。それは道化師≠フ笑みではなく、どちらかというと策士≠フような笑みであった。
 そんな笑みを見た二人の顔が一瞬緊張に固まったのを面白そうにバックミラーで確認してから、何処か熱に浮かれたようにクレメントは話し出す。
「迷ってしまうのも良し、足早に終わらせるも良し……だがこの場合早々に終わらせる方が良いのかもしれない……しかし退屈な戯曲をすぐに終わらせ、また退屈な日常に戻るのは非常につまらない……ああ全く私を迷わせるのが好きな、罪作りな世界だ」
「その罪の大半は貴様の脳内にあると思うのだがな」
 後部座席だけがオペラの舞台になっているのにも関わらず、最前列の客席に座っている無愛想な客は、役者に背を向け冷酷な言葉をキッパリと言ってのけた。それに少しムッとしたような表情を見せたクレメントは、助手席の後ろにしがみつき、その美貌の一つである形の良い耳に唇を寄せると、まるで地獄から這うような声を絞り出す。
「心外ですね……私はいたって普通ですよ。それとも何ですか、貴方は私の性格を全社会不適応だとおっしゃいます?」
「その通りだ、今頃気付くとは貴様にしちゃ随分と時代遅れじゃないか」
 それでもガートルードの無表情は崩れることなく、それどころかフンと鼻で嘲笑ってまでみせた。しかし自慢げに言ってのけた言葉に返ってきたのは自分に対する言葉ではなかった。
「では道はこちらとこちら、そうですね? コンラッド」
 自分に不利益なものには無関心なクレメントは、とりあえず助手席で腕を組み威張りくさる傘男を無視すると、運転席に痩身を乗り出しコンラッドに問い掛ける。話をふられたコンラッドは拗ねたようにそっぽを向いた隣の男を一瞥してから、クレメントがガサガサと開きだした地図を覗き込んだ。
「そうだな。ちなみに俺がすすめるのはこっち」
「んむ?」
 広げたイングランドの地図を見つめていたコンラッドが指をさした場所を見て、クレメントは地名を読み上げる。それは少し奥のカースルクームではなく手前の―――
「ロンドン」
「その通り(ザッツ・シュア)」
 答えに満足そうに頷いたコンラッドは、ロンドン側の分かれ道に車体を滑らせると、風貌に似合わぬ碩学ぶりを垣間見せ始めた。
「昨日ここで強硬派(ばかども)の大規模テロがあったらしい。今までこんな大きなテロはここで起こったことはない。お前さんの探してるあれ≠ェあるとしたらまぁここのすぐ近くとまではいかんでも、ある程度そばにはあると俺は推察するぜ……ここなら心当たりが無いわけでもない」
「ほぅ、流石情報には長けているなコンラッド」
 助手席に肘をかけ、手をひらひらさせつつ得意そうに言い切ったコンラッドに、ふとそちらを一瞥したガートルードが感心したように会話に割り込んだ。彼にしては珍しく本音らしい。だがふとした違和感にちらりと運転席を見やった後、あのクレメントでさえ変えることのできなかった顔が、微かに引きつった。その様子にしばし沈黙した後、あくまでも冷静に、しかし意外と震えてしまった声を投げかける。
「だがコンラッド、貴様が脳だけではなく足も器用だと主張したい気持ちも理解出来んわけでも無いが、その前に即刻中断しないと我等の命の灯火が儚く消え去ることをまず理解してくれ」
「んなっ!?」
 そこで始めて気がついたのか、クレメントは先程までの優雅さはどこへやら、らしくもなく甲高い奇声を上げると、片足でハンドル、片足でアクセルを操作し前方無視真っ最中のコンラッドの頬をバシバシと叩いた。
「なっ何をやっているのです貴方は!? 私を殺す気ですか!?」
「俺は含まれていないのか」
「あーん? るせぇな、初心者マーク貼ってっから他車は俺達を優先するさ、安心しろ。それに俺達なら死なねぇさ…………多分」
「出来ません! それに何ですか多分って、前向きなさい!」
「俺はいつでも前向きだ」
「顔を後ろ向けて威張らないでください!」
「何を今更きゃんきゃん子犬みたいに……お、へー、お前いい顔してんのな、可愛いぜ?」
「本当のこと言っても無駄です! ってそれよりガートルード、貴方は何そんなひょうひょうとしてるんですか!?」
 長いこと夫婦漫才を繰り広げていた相方のクレメントは、いざという時にしか便りにならないと思っている第三者に話をふった。今の状況をこの男なら何とかしてくれると信じる―――だがそれが甘い考えだと知るのは、助手席で恐れを知らぬ顔が目を閉じて、瞑想しながら呟いた返答を聞いたときだった。
「何、後世に語り継がれるような遺言を考えているだけに過ぎん」
「貴方達はか弱き私をいじめて楽しいですかっ!?」
 あくまでも冷静に、だが内面先程の復讐が叶い何処か嬉しそうなガートルードの言葉に、とうとうクレメントの声に涙が交じり始める。先程までの天使の顔をした悪魔のようなクレメントからは到底考えられないだけに、二人はどこか楽しげに目配せをすると、近づきつつある前方の検問所に目を向けた。そこにいる婦警を見た途端、コンラッドの顔がにんまりと品定めをするような笑みに変わる。
「おっと前方に美人発見」
「ふむ、なかなかいい女だな」
「そんなのいいからブレーキを! 早く!」
「そんなの? 馬鹿、けっこうイケてるぜあの娘」
「馬鹿は貴方だコンラッド、ブレーキ!」
「無理」
「そんなはずないでしょう!? ってちょっ、し、しまっ……ぶつかる……!」
 クレメントが前方を見て悲鳴に近いものを上げた時にはすでに遅く、本物の悲鳴をあげ逃げる検問所の人々めがけ、真っ赤なオープンカーは突っ込んで―――
「―――っら! 捕まってろクレミー!」
「わ、ぁ!」
 大きく世界がぐらついた途端太く逞しい腕によりクレメントの痩身は運転席の背に縫い付けられ、凄まじい風圧が体の右側を叩く。そしてそれに負けぬよう椅子の背にしがみついたのと、キキーッとタイヤと地面が激しく摩擦する嫌な音を耳が拾ったのは、ほぼ同時だった。
「おーらっ、ピッタンこ。さっすが俺様、ドリフトも一流だな!」
「……っは……」
 軽々しい言葉を震える耳で感じ取り、思わず潜めていた息を吐き出して、クレメントは閉じていた目を開いた。どうやら無事らしい。未だ揺れているような感覚に体を弄ばれながらも、自分を支えていたコンラッドの片腕から逃れると、砂埃がたつ辺りを見回す。避難した人々が例外なくこちらに視線を集めていた。それはそうだろう、部外者がこんなど派手な登場をすれば、誰だって興味ないし注意を集めないはずが無い。内心は慌てているのだがそんな素振りを一切見せず、ドアを開け長い足で優雅に車体から滑り降りると、クレメントは慇懃に深く一礼をした。
「皆様失礼いたしました……あの者は生まれが田舎故に行動が粗暴で御座いまして」
「あ、貴方達は何処から来たの? こんな乱暴な運転……何も無かったから良かったものの、怪我人が出てもおかしくなかったわ!」
 そんな姿に一喝したのは、紺色の制服を身に纏っている、先程話題にされていたあの婦警だった。肩までもない切りそろえた黒髪の下の整っている顔は、美人の範疇に入るものだったが、今は怒りの色を露にクレメントを見下ろしている。しかしそれにクレメントは全くといっても良いほど動じず、相手の怒りにこれ以上触れないよう出来るだけゆっくり言い含めるように話し出す。
「先ほどの愚行に関しましては汗顔の至りに御座います、レディ。真に申し訳ない……私達はあるものを探している世界中を巡っている旅人です。入国許可証はこちらに、どうぞ」
「全く、とんでもない旅行者ね貴方達は!」
 元から苛立っているのか、はたまた根からの怒りんぼなのか、一向に怒りが収まらない相手にポーカーフェイスを崩さず、クレメントは三人分の入国許可証を差し出した。そしてそれをやや乱暴に受け取った婦警が、それが偽物ではないかを確かめている間、後ろで何やら貧乏くさい口論を続ける同行者に一瞥をくれ、密かに溜息をつく。全く、よくもまあこれだけのトラブルメーカーが揃ったものだ…と、本物のトラブルメーカは人目につかぬよう呆れた顔を隠さなかった。しかし今はそんなことを構っている暇は無い。目の前のトラブルを解決すべく、漸くこちらに向かって顔を上げた婦警に、美貌を最大限にいかした笑みを見せた。
「…………わかりました。入国の許可が下りているのであれば、問題ありません」
「そうですか。それではこれで失礼―――」
「何を言っているのです。罰金ですよ、罰金」
「……何ですって?(ヴィー・ビテ?)」
 その時初めてクレメントのポーカーフェイスが微かに歪められた。だがそれ以外の失態を見せず振り向いた美貌に、アグライアの容赦の無い二の矢が飛ぶ。
「あんなことをなさったんですもの、十分法律違反よ。そして入国したのだから、我が国の法に従ってもらわなくちゃ。選んでもらいますよ、銀行で反則金を寄付するか、裁判を受けるか」
「……仕方ありませんね」
 大げさに肩を竦めると、クレメントは未だぶつくさ口論している二人の方に顔だけを向けた。
「コンラッド、こちらに財布を持っていらっしゃい」
「……!」
 軟体動物を思わせるようなクレメントの指の誘いに、目に見えるほどビクリと大きく体を震わせたコンラッドは、あたふたした後、腕で大きくバツを作る。
「……何ですか、それは」
「俺はどこぞの金食い虫に、毎度毎度金とられてんだよっ! あるわきゃねーだろ!」
「……全く、使えませんね」
 いかにも仕方が無い子供達だ、と言いたげに金食い虫≠ヘ溜息をつくと、今度はその隣の傘男に視線を向けた。
「ガートルー―――」
「貴様に貸す金などこの世に存在し得んものだ、覚えておけ」
「……それは、非常に不味い事態だ……私達、前科が出来ちゃいますよ」
「何だと?」
 心底疲れたような溜息とともに漏れたクレメントの言葉に、やっとガートルードは無表情を崩し、内容を理解すると少々ばかり慌てたような声を出した。
「コンラッド! 貴様が原因だぞ! 何故あのような無茶をする!」
「ちょっ、全部俺の所為かよ! お前もノリ気だったくせに……だったらクレメント、大体走行中に話しかけんな!」
「おや、私は貴方が道を聞いてきたから答えたまでですよ、そんな真似をしたのは貴方の方じゃないですか」
「ぐ……っでも、お前らが何で俺にすべてを押し付けるんだよ! ってそれよりそこ! 何逃げてんだよこのバカザムライっ!」
 一方的にあれやらこれやら理不尽な罪を被せられてしまったコンラッドは、その大きな腕をブンブンと振り反論していたが、いつの間にか隣からいなくなった同行者に向かいビシッと指差す。だがすでにその時にはガートルードは婦警の手をとり、無駄に溢れる美貌に最高の笑顔を浮かべ、まるで口説くような声で説得を開始していた。
「レディ、俺はあいつらとは無関係だ。むしろ助けて欲しい……俺はとある貴族なのだが、あいつらに騙され拉致されてしまったんだ。どうかこの俺を助けてくれないものだろうか?」
「なぁに嘘をつらつらつらつら並べてやがんだてめぇわっ!」
「見苦しいですよガートルード。貴方剣士の癖して弱い者のふりをするとは……全く、情けない」
「……チッ」
 元同行者の糾弾に漏らした美貌の小さな舌打ちは、あまりの美貌に顔を赤らめ思わず頷きそうになっていた婦警を現実へと帰らせるには十分であった。呆けた顔からはっと我に返ると、今までとろけていたその美しい顔に向かってやや裏返った声で叫んだ。
「……っ騙されませんよ! とにかく、反則金が払えないのなら、私についてきてください! 連行いたします!」
 それだけを一気にまくし立てると、婦警はもう一度顔を赤らめ、傘男に握られたままだった手を逆に強く握り返す。そして傍にいた同僚に「あの人たちを連れてきて」と事務的連絡だけ済ませると、ガートルードをパトカーまで連れて行き始めた。
「あーぁ……ついてねーな、幸先」
「だれか幸薄い人がいるんでしょう」
「ガートルードか」
「ガートルードですね」
 両脇を制服姿の男に囲まれ仕方ないとばかりに歩き出した二人は、自分達の先で同行者が喘息の発作を起こしているのを微塵にも気にせず、ただ可愛い我が身を案ずべく溜息をつく。全くもってついていない。
「さぁ、早く歩け!」
 威勢のいい声がとぼとぼと歩く二人の男の背を押す。二人は思わず顔を見合わせると溜息をついた。どうやら自分達には嘆く時間すら恵まれないらしい。
 しかし傘男だけではなく三人とも幸薄いと自ら気付くには、生憎と少々時間が必要らしかった。

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