「ま、外でいちゃついてるあいつ等はおいとくとしてだ」
 割れた窓から見える二人の人影を揶揄するように眺めていたコンラッドは、足を組みなおし前のソファに腰掛ける二人に視線を移す。すっかり我が家気分のコンラッドとは違い、慣れているはずのこの家に神妙な面持ちなアグライアとフリードリヒは、その言葉に思わず外に視線をやりかけるが、すぐにコンラッドに視線を戻した。
「先に話を進めるぞ」
「ねえ、クーノ。まず私から良いかしら」
 思わず授業が始まるような雰囲気に挙手したアグライアを、教師のように珍しく片眼鏡をかけたコンラッドは「はいアグライアちゃん」と指名した。すると警官制服を纏う身を乗り出してアグライアは喋りだす。
「“サイプレス”って何なの?」
「それについては僕が答えよう」
 婦警の問いに軽く手を上げながら、隣に座っていた今一人の警官が同じように身を乗り出した。フリードリヒは膝に腕を乗せて指を組むと、その上に顎を乗せてから語りだす。
「“サイプレス”は僕が長年探してきたものだ」
「え? じゃあ物なの?」
「集団名だ」
 先程から機械音を吐き出している片眼鏡の画面を真剣に見やりながらも、“ロスの碩学”は話に割り込んだ。もしこの場に大学などの関係者がいたら、すぐさまコンラッドを教授として勧誘したであろう。
 コンラッドのしている片眼鏡―――正しく言えば検索用片眼鏡(サーチモードグラス)は新地大革命(ブラッディ)以前に本来なら機械人間用に作られた、通常の人間がつければ間違いなく最低でも人生の半分を、ベッドで暮らすことを余儀なくされてしまうものだ。理由はその高性能さにある。検索用片眼鏡(サーチモードグラス)は機械人間の機種を見分けたりするだけでなく、その物質の内面を分析し、答えをはじき出してくれる。しかし、それは画面に現れるだけではなくつけている者の脳によりイメージが沸くようにと、情報を信号化した電波を絶えず送り続けるのだ。それ用に作られた機械人間ならまだしも人間、ましてや対機械人間用に開発された薬品で戦闘能力を得る鋼鉄人間(ガンメタル)ではない通常人間(ノーマル)が、検索用片眼鏡(サーチモードグラス)をつけて冷静な状態を保てるのは尋常ではない、もはや神業の域である。通常ならばあまりの情報の多さに脳が痴呆症になったり、神経を狂わされて四肢が動かなくなったりとするものなのだ。それ故に人間が検索用片眼鏡(サーチモードグラス)を扱うのは近年稀に見ることである―――そしてそれが意味することは、その者の脳が異常なほどに働く天才であるということだ。
「集団名って、何の?」
「強硬派のだよ、アグライア」
「何ですって?」
 同僚の言葉に思わず“死刑宣告人(エクセキューショナー)”は顔を顰める。膝の上に置いた掌をぎゅっと握り締めて、言葉を続けた。
「それは本当なの?」
「そうなんだ」
「どうしてそれを教えてくれなかったの?」
 今までそんな名前聞いたことも無かった―――そんな目で見上げてくるアグライアに、フリードリヒは気まずげに顔を逸らす。それには彼なりの事情があったのだろう。いくら死刑宣告人(エクセキューショナー)≠ニいう忌名を持つアグライアとはいえ、その名を剥がせば小娘同然。危険度も高い。なら口封じ目当てで被害を受けたとしてもそれは自分だけ、と被害は最小限にとどめたかったに違いない。
(……ま、これじゃ仕方ねぇな)
 検索用片眼鏡を覗き込んだ深緑の瞳が悪戯っぽい光を宿して、すぐに消えた。相変わらず韋駄天のように文字の羅列が小さいモニターを滑っていく、という表現が正しい画面を隙無く見ていたコンラッドは、「まぁまぁ」と声をかけ、同僚を心配しているというより置いてけぼりにされ拗ねた子供のようにフリードリヒを見上げるアグライアを宥めた。
「今わかったんだ、いいじゃねぇか」
「良くないわよ! もし知ってれば、私は―――」
「奴等を倒せた、か?」
「!」
 必要な情報だけを書き留めているのか、ペンをとった手を忙しなく動かしているコンラッドの言葉に、アグライアは言葉を詰まらせる。カリカリと書く音と機械音が響く中、ロスの碩学≠フ声はより響いた。
「お前は奴等を知っていれば、倒せたか? ん?」
「……そ、それは……」
「まず普通の人間なら、無理だ」
 相手の顔を見ないままのコンラッドの声は、酷く素っ気無い。
「感じたろ―――あの威圧感」
「……」
 その通りだ。渋々とアグライアは無言で頷く。
 あの者が発した異様な威圧感―――否、それ以上の何か。人にあらざりしモノ。何かと問われれば困るが自分は確かに、あれに「恐怖」という感情を持った。
「簡単に言えばサイプレスは、元々は兄弟の幹部六人とボス一人で成り立ってる。そしてその下、普通の強硬派だ」
「じゃあ、今日来たのは……」
「幹部だな、名前はフィア……そしてドライ」
「あいつらは尋常じゃない力を持っている……」
 コンラッドの言葉を引き継いで、フリードリヒは呟く。うんうんとそれに頷いたコンラッドは、情報収集は終わったのか几帳面な字が連なるノートをぱたりと閉じ、組んだ足の上に肘を乗せ指を組みその上に顎を乗せる。鋭い深い緑が、二人を捉えた。
「正直言って、今のお前らが相手に出来るようなレベルじゃないことは、確かだ」
「……」
 すぐ西を渡った大国で名を馳せたロスの碩学≠フ言葉が虚偽でないことをわからない愚か者は、少なくともここにはいなかった。ここにいる全員が、あの強さを知っているからだ。
「だからといって、対抗策がないかというと、そうでもない。俺は奴等の力の正体には大抵目処がついている……なぁ、お前らは朝はぱっと起きられる方か?」
「は?」
 いきなりこの男は何を言いだす―――胡散臭い4つの目に見られても、コンラッドはその口を閉じなかった。煙草を吸おうと胸元に手を伸ばしかけ、ここに灰皿がないことを思い、しぶしぶと手を下ろす。
「私は起きれるわ。もう習慣だもの」
「僕も起きれますね」
「ん、じゃあ起きれない人間もパッと起こせる方法を知っているか?」
「……」
 二人共無言で顔を見合わせるが、すぐに左右に首を振った。そんな無駄な知識を持ち合わせてはいなかった。その様子にどこか満足そうに頷いたコンラッドは、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて答える。
「それはな、蚊の羽音だ」
「あ」
 コンラッドの答えにフリードリヒは納得したようだ。ぽんと手を打つと、なるほどと呟く。
「え、何?」
「確かに蚊の羽音は耳元でされると嫌ですよね」
「あ……そう、よね……」
「その通り(ザッツ・シュア)」
「でも、それがサイプレスと何の関係があるの?」
 少しだけいらだったように、アグライアが尋ねた。今は深刻な話であったはずなのに、何故人が早く起きる方法について講義を受けねばならないのだろう。もしかしてそれが強硬派を倒す方法なのだろうか?
「まあ待て……で、それはな。人間の可聴領域で、人間にとって不愉快に思うような領域と、蚊の羽音の周波数が重なっているからなんだ。つまり、人間には嫌だ、気持ち悪い、恐いなんて思う音があるわけだ。作曲家なんてのはそういうのも考えて曲を作ってる。そして、今回のサイプレスの襲撃で、襲撃してきたドライとフィア。俺はフィアの方にゃ会ってねぇが、ドライはある言葉を呟いてから……変わった」
「……」
 変わった、という言葉だけでは言い足りない劇的なアレを、ロスの碩学≠ヘ淡々と言ってみせた。その時いの様子を思い出し思わずふるりと震えたアグライアの肩にそっと手を回し、安心づかせるように笑んだフリードリヒは、相手の言葉を促す。
「それで?」
「そいつは、俺達が今まで見てきたアハトと同じ(・・・・・・)変化の仕方だだった」
「!」
 アハト―――その言葉を発したフィアの顔がどんなに人間のようであったか。そう呼ばれたクレメントの顔が、どんなに悲しく歪んだことか。お互い見つめあう空間が酷く懐かしかったのだろう―――姉と、弟は。
「俺はあいつの変化ならもう見慣れてる。前みてぇに足がすくむこともない……そして今日。俺はあいつを見て恐れは感じたが、動くことは出来た。つまりあいつらのもたらす恐怖には、共通点があるってことだ」
「ね、それよりも聞いて良い……?」
 これから本題に入ろうとしたコンラッドを遮り、アグライアが声を上げた。先を促したのは自分だというのに、申し訳ない気持ちになりながらも聞こえた単語について確かめたかったのだ。そして教えてくれないあいつの代わりに教えてもらおうと、思った。
「アハト……クレメントって、何者なの?」
「……」
 今まで笑みを刻んでいたコンラッドの顔が、ぴくりと一瞬だけ強張る。だがそれはほんの一瞬で、アグライアが瞬きし終えたときには面倒そうな顔に戻っていた。暫く宙に視線を逸らして、英才は迷っているようだ。何か言おうとして開きかけた口を何度か開閉させて、やっと言葉を紡いだの三分後のことだったのだから。
「―――あいつに直接聞いとけ」
 そして答えがこれである。
「……え?」
「俺からは言えねぇな……あいつの過去は、あいつから言うべきだと思うぜ」
「で、でもっ、教えてくれなかった―――」
「そりゃ、まだ話したくないからだろう……出会ってすぐのやつに話せるほど、簡単な話じゃねぇからな」
 出会ってすぐのやつ、と天才は呟いた。まったくもってその通りだ、自分はこの地には住まうがあの男にとってはよそ者で、見ず知らずの女だ。では何故見ず知らずの女の命を、人々の命を幾度と救った? 信じろと言って、何故自分は信じてくれない? あの男は、何がしたい?
「ああ、でもな……あいつが、お前らを救ってんのは気まぐれだ。あいつには力がある、だからお前らを護ってる、それだけだ。あんま……深く考えんな」
「……」
 気まぐれにしては優しく悲しい表情まで見せたドロイドの顔を思い出して、アグライアは泣きそうな気分になった。ここまで振り回されて自分は何も知る権利もないのだろうか。自分はあの男が頼ってくれるほどの力がないから、教えてもらえないのだろうか。様々な疑問が、顔に浮かんだのかフリードリヒの顔が悲しく歪む。
「さて、話を元に戻したいところだが……そーいうわけにもいかねぇか」
 ちらりとアグライア達に鋭い深緑の瞳を向けて、コンラッドは呟くと胸ポケットに手を入れてピンッと黒い小さな円盤を指で弾いた。賭け事を決めるコインのような軌道を描き、それは表か裏かもわからぬ顔をみせて机の上に乗った。よく見れば少しだけ出っ張っていてレンズがあるようにも見えなくない。
「アリス」
 それに向けて、コンラッドはどう聞いても女としか取れない名前を投げかける。一瞬二人はこのコインは女なのだろうかと思ってしまうほど、その言葉には愛しき恋人に投げかけるような優しい響きがあった。
 だが蜂が羽ばたくような音をたて現れたのは、ほんの人差し指ほどの大きさをした小さな女性の姿だった。
[キャディラック搭載人工知能アリス・メイヤーこちらに]
 アリスと呼ばれたその女性は立体映像だった。ルビー色を彷彿とさせる長い紅色の髪を結い上げ、黒いスーツを纏った痩身が直立不動に起立している姿は、何処か敏腕秘書のようである。何処から見ても非の打ち所のない姿を見下ろし、コンラッドは顎鬚を撫でると小さく呟いた。
「今ここはキャディラックじゃねーぞ」
[……]
 その言葉が聞き取れたのか聞き取れなかったのか、しばしアリスはその場で姿勢を保っていたが、不意にふっと姿を消失させる。ほどなく数秒して現れたアリスは、先ほどの勤勉な姿は何処へやらふわふわと柔らかそうな髪を二つに束ね、同じようにふわふわとしているスカート―――俗にいうメイド服―――の裾を押さえるようにして、我侭な天才を見上げた。
[ご主人様、アリス・メイヤーこちらに。何か御用でしょうか?]
「用がなきゃ呼ばねーよ」
「……」
 ぴく、とアリスの肩がイラついたように跳ねたのは気のせいではないだろう。それでもアリスは顔に貼り付けた微笑を剥がさないまま主人を見上げている。しばしの見つめあいでも、両者動くことはなかった。
 コンラッドはやっと満足がいったのかノートをぱさ、とアリスの前におきページを開いた。
「これは調べた事項だ。あの変態と一緒にこれを調べてくれないか」
[かしこまりました。お望みのお時間は?]
「十分」
[は、それで―――]
 残された二人があっけらかんとしている間にも、二人の会話は進んでいる。ぺらりぺらりとノートを捲るコンラッドにそれを機械音をたてて読み込んでいるアリスをなんとも言えない気持ちで見つめること数十秒。
[それではこれで失礼させていただきます]
 現れたときと同じ機械音をたて、その姿は消失したきり見えなくなった。
「い、今のは?」
「ん? ああ、あれ?」
 暇そうにピン、と円盤―――小型映写機を弾きつつ、コンラッドはアグライアの不思議そうな戸惑い含む問いに、溜息をつきながら答える。
「アリス・メイヤー。俺の知り合い。所謂秘書みたいなもん。美人だけど強気なのが玉にキズ」
「……アリス・メイヤーといえば、三年ほど前大掛かりな臓器移植をした方では御座いませんか?」
 その説明にふと顔を上げたフリードリヒが、記憶を探るようにして腕を組み小首を傾げた。ピクン、と肩を微かに揺らしたコンラッドに気付いていないのか、暫く宙に視線をさまよわせて、うんと自分を納得させるように頷く。
「やっぱりそうですよ。ロスの―――UCLAの息がかかった病院で、心臓含めた4つの臓器を交換したとか。前に読んだ記事に書いてあって、名前が覚えやすかったから覚えていたんですが……UCLA、貴方がいた学校でしょう?」
「……まーな」
 心臓がいてぇな―――無償に煙草を吸いたいという欲望を精神力の限りで抑え、“ロスの碩学”は苦笑交じりに答えた。
 コンラッド・フレーバーは、カルフォルニア大学ロサンゼルス校―――通称UCLAで常にトップを独占する生徒であった。世界的に有名なカルフォルニア大学の州立大学システムで多数にある校舎の中でも優秀な成績を修めるこの校舎は、ロサンゼルスの外れに存在した。教授陣も著名な研究者を集めており、勿論のことながらその授業も密度の高いものである。そんな中常にトップにいた存在として、知名度の一番高いコンラッドには次第にそのあだ名が付けられていた。
 在学中での博士号の授与も含め、様々な面で優秀だと謳われた彼はつい三年ほど前、何とその大学を中退しただ。それによって一気に悪い意味も孕み知名度は高まり、そして学者の中でその名を口にすれば誰もが「ああ」と思わず声を出してしまうほどの知名人である。
 だが何故彼が大学を中退したのか、理由を知るものはいない。
「けどよく、ンなマイナーなニュース、知ってたな」
 “ロスの碩学”の中退は様々な新聞が第一面の記事に載せた。天才を英雄のように見ていた者たちを結果的に裏切る形になり、暫くのニュースでもその話題は尽きなかった。確かにアリスのこともニュースになっていたが、裏切り者のニュースに比べれば小さいものである。そんな中の小さな記事とも思われるそれを、よくこの男は覚えていたものだ。
(理由は、簡単か……)
 ふん、と鼻息一つついてコンラッドは顎鬚を撫でる。鋭い深緑の瞳は一瞬だけフリードリヒの黒瞳と見つめあい、そして自然に逸らされる。
 ビンゴだ―――ニヤリ、と心の中で笑みを浮かべ、天才は立ち上がった。
「ま、そいつらが今情報を分析してくれてるからよ、俺はその情報を受信しにいってくるぜ」
「何処で?」
「キャディラックに機材が積んである。んじゃ後はお若いモンに任せますかね」
 ひらひらと背後に手を振り、あのバカップルたちをどうしようかと呟きながらコンラッドは歩き出す。後ろでフリードリヒが立ち上がったのも気配で感じつつ、それでも振り返らない。それよりも今まさに自分が出ようとした扉が古めかしい音を立てて開いた事項が優先だったからだ。
「おや、どうしましたコンラッド?」
「おー、いちゃつきは終わったかよクレミー」
 相変わらず仏頂面の剣士を引き連れてきた黒髪の美貌に、ニヤリと笑いかける。肩を竦めつつ微苦笑のようなものを漏らしたクレメントは手を肩まで上げて「全然」と示した。そして立ち上がって礼をしているフリードリヒに視線を移し、コツコツと規則的な足音を立てながら近づいた。
「私、出来ればお風呂をお借りしたいのですが。昨晩入れなかったのであまり良い気分ではないんです」
「ああ、それならばこちらですよクレメントさん」
 初対面の人物の我侭にもフリードリヒはニコリと愛想の良い笑みを浮かべて、奥へ案内した。それをあまり思わしくない気持ちで眺めるアグライアだったが、ふいと視線を逸らしソファに残留する。今の今までコンラッドが座っていた場所に、ガートルードは移動し座って傘を傍らに置き、目を閉じる。コンラッドはその様子を見て、口元を不適に歪めながら外へ出た。
 戦いが始まる―――それを、誰もが直感で感じていた。


[ご主人様、用意が出来ました]
「おー、十分ジャスト」
[ご主人様のご要望とあれば。さて……]
 運転席にゆったりと腰をかけていたコンラッドは、懐中時計を見ながらクスクスと笑んだ。先ほどまでのアリスに対する態度より幾分か和らいでいる。先ほどのメイド服とは違い黒スーツに身を纏わせたアリスは、じっとコンラッドの瞳を見つめて、情報の提供を開始しようと思ったがふと思い出したように付け加える。
[それと、ミスター・エヴァンス―――ジェシー・エヴァンスから伝言を承っておりますが]
「……削除してくれ、出来れば」
 その名前を聞いて一気に疲労を感じたコンラッドの出来れば、という言葉に力が籠った。だがそれに対し髪の色と同じ色をした瞳を伏せて、どこか勝ち誇ったようにアリスは首を振り言葉を告げる。
[駄目です。ご主人様がもし削除なされた場合、私の中の強制的に書き換えられたプログラムが発動してしまいます]
「何だ、それは……聞かなくともわかる気がするんだが」
[キャディラック制御装置強制破壊プログラムですわ]
「……読み上げてくれ」
 頭の中に浮かんできたブロンドの髪の美男をすっ飛ばして、コンラッドは殆ど棒読みとも取れるような指令を下した。
[『俺の信頼なるクレーバー君へ。俺とアリスで頑張って調べてやったから、ちゃんと頑張るんだぞ。泣きたくなったら戻ってこい。歓迎してあげるから。それとクレメントさんに今度酒盛りしましょうと伝えて下さい、よろぴく!』……だそうですが]
「俺のラストネームはフレーバーだっ! いい加減覚えろあの変態教師ィっ!」
 大きな手によって作られた拳が、行き場のない怒りをその中に溜めこんでブオンと音を立て振り回される。もしこれでシニョリーナに乗っていなければ、近くにある物質を破壊していたところだろう。それほどまでにコンラッドは我をも忘れ、あのクソ野郎だの玉無し野郎だのと喚いていた。あまり女子の前で叫ぶ台詞ではないことも確かだ。
 暫くしてようやくおさまったのか、肩で息をしているコンラッドは指を軟体動物のように動かし、かつての同期生に愚痴を零す。
「あいつ俺の苗字を何度間違えてる!」
[数え切れませんわ]
「クレーバーって、人の頭脳で名前を決めんじゃねーっつーの!」
[コミック・ディヤログ(まんざい)の台本を書けますわね、彼]
「それにあのバカザル! 弱すぎのクレミーに酒なんか飲ますな! 後処理は俺だぞ、俺!」
[彼はお酒が強いですから。同じ嗜好の持ち主と飲みあいたいのでしょう]
「なぁ、同じ嗜好って、俺はまだこの点でクレミーの方がマシだと思うぞ! あいつは人のケツ触ってきたりするか! しないだろ? だがあの変態教師は、する!」
[お気の毒ですわ]
 優秀な秘書アリスは主人の喚きを丁寧に聞いて、返してやった。そうでないと自分にまでも危害が加わりそうだと判断したからだ。報告する内容が話せないまま数分、アリスは辛抱強く天才の愚痴を聞いてあげることにした。
「……あークソ……あいつの余計な伝言で時間が過ぎちまったじゃねぇか」
 ガリガリと薄黒い髪を掻き、それが自分の愚痴の所為だとは自覚もせずコンラッドは呟く。やっとか、と内心溜息をつきたいのを抑えて、アリスはまるで母親のように柔らかく微笑みかけた。それを真正面から見た“ロスの碩学”は、思わずカァッと頬を染める。だがそれを隠すように、顔は伏せられ面白くないと舌打ちをした。
「っクソ……アリス」
[はい、何でしょうご主人様?]
「それで呼ぶな、普通に呼べ」
[でも……]
「いーからっ、クソ! ……久しぶりに素面のおめーと、話してーんだよ……」
 まだ名残がある微かに染まった頬を隠さず、じっとアリスを見つめるコンラッドは普段の彼のプレイボーイは何処へやら、まるでうぶな青年のようである。暫くぱちくりと瞳を瞬かせたアリスだったが、すぐにクスクスと笑みを零す。今まで直立不動を守りきっていた姿勢を崩し、円盤に腰掛けるようにして座り込んだ。
[これもクレメントさんのおかげかしら、貴方がこんなに丸くなるなんてね]
 同期生―――とはいっても一つ年上の年長者らしい喋りで、アリスは笑いかける。唇を尖らせ拗ねているコンラッドを見て、笑いが止まらないのか肩が震えていた。
「うるせーよ」
[それとも私のおかげ? エヴァンス教授?]
「ぜってーあいつのせいじゃねぇっ!」
[あら、私は否定しないのね]
「……っ」
 今度こそ隠しようもなく、コンラッドの顔が耳まで赤くなった―――図星だ。元々正直者の彼は嘘などつけるはずがないのだ。そんな特性をちゃんと理解しているアリスは、余計可笑しそうにクスクスと笑う。だがそれもすぐに終わり、きりっとした顔つきになるとコンラッドの顔を真正面から見る。
[それより、調べたことなんだけど……]
「おぅ、話してくれ」
 コンラッドの変わり身も早く、すっと顔色を戻すとアリスの報告を待つ。
[流石“サイプレス”ね……やっぱり内部の情報までは手に入れることは出来なかった]
「元から期待はしてながったがな……で?」
[失礼しちゃうわね。……それで、貴方が言った建築物は調べておいたわ。確かにアレ(・・)を隠すには、もってこいだとは思うんだけど……]
「だけど?」
 しっかりとしたアリスの口調が、少し自信なさげなものになった。開いたノートにペンを構えつついたコンラッドの首が傾ぐ。
[貴方の言った場所とは別に、もう一つあるのよ]
「……一つはブラフか?」
[そうだと思う]
「計算の要求。戦力の分散、1(クレミー):2(おれたち)。勝算を」
[皆無(ナッシング)]
 あまりにも素早い答えだった。思わず面食らうコンラッドに、アリスの報告は続く。
[“サイプレス”幹部一人ひとりの戦闘力は、クレメントさんと等しいもの、もしくはそれ以上と考えておくべきだと思う。未知な存在だし、今回ガートルードさんが交戦して引き分けに近いって貴方は言ったけど、私は違うと思う]
「どうしてだ?」
[敵はおばかじゃないから。貴方はフィアって子が優勢だといったわね?]
「ああ」
[その時、通信でクレメントさんに得があるとも聞こえたのよね?]
「その通りだ」
[きっとクレメントさんを、泳がせようとしてるのよ。泳がせている間にクレメントさんは貴方―――ないし誰かの手で強化されるかもしれないのに、とどめを刺さずにアジトに戻させた。つまり、彼に絶対に勝てる自信があるということ、そして彼を逆に利用する手立てが出来たということ]
「……」
 顎鬚を撫でているコンラッドの頭は目まぐるしく動いていた。様々な計算と推理を重ね、そして渋々頷く。
[その点からいって、戦闘力は貴方達―――いえ、私達よりも上だってことがわかるわ]
「ああ……だが俺だって」
[コンラッド]
 手を挙げそれをひらひらと振っているコンラッドに釘をさすように、アリスは口を開いた。ルビー色の大きな瞳が、愛おしそうに、切なそうに同期生―――否、それ以上の存在を見つめる。彼はいつもこうして無理をしていた。自分を大事にしない人だった。だからあんな過ちを犯したのだ……
[貴方の力には、限度がある。それは、貴方の命を縮めるようなものよ]
「だけどよ」
[クーノ。駄目]
「……」
 まるで大型獰猛動物を子犬のように扱う恐れ知らずの動物愛好家のようだった。キッパリと言い切ったアリスに、コンラッドは再び拗ねたように黙り込む。
[……報告を続けるわ]
 相手が黙ったのを確認してから、アリスは再び口を開いた。
[守護八神(ヌルト・ドロイド)≠フ力は後でクレメントさんから聞くとして、仕組みについては私も同感]
「そうか……弱点は、やっぱ髪留めだな」
[ええ。以前貴方がクレメントさんの髪留めを走査(スキャン)したときの情報をサルベージしたんだけど、やっぱりアレと似たような仕組みだった]
 そう言いながらアリスがそっと手をかざす。するとそこにクレメントの髪留め―――パレットの縮小版が現れた。それをゆっくりと回転させコンラッドに全てが見えるようにすると、説明を再開する。
[ただ違うのは、こっから出しているのは、全くアレとま逆の効果よ。アレはアンドロイド―――強硬派と人間派の怒りを煽る周波数。けれどこれは、ヌルト兄弟が秘めている力を抑えるための働きを促進するもの]
「つまり人間らしくさせる、ってことか」
[その通り(ザッツ・シュア)、よ]
 そう言い切って、しゅっと手を握る。その中にパレットが閉じ込められて、手を開いても何も現れなかった。それが当たり前のようにアリスは手を組むとコンラッドを見上げる。
[これは普通のドロイドにもついている“マインド・コントロール”とは別物……いえ、それで抑えられないからこそ、これを使っているの。だから彼らからそれを奪ってしまえば、慌てるでしょうね……抑制が効かなくなって、見境つかず自分の身体すらも破壊してしまうかもしれないのだから]
「それをもし、肌身離さず……例えば服の中に入れられたらどうする?」
[貴方、いつからそんな弱気な発言するようになったの。さっきまで強気だったのに……倒してしまえばいいじゃない]
「……俺はお前が凶暴になっただけだと思うがな」
 クツクツ、と笑いを零したコンラッドは今彼女がホログラムでなければ自分はどんな目に合っていただろうかと想像しかけて―――やめる。想像するもおぞましいような事態になりそうだったからだ。
[失礼しちゃうわね本当……それにしても貴方、クレメントさんと長くいるのに、全然彼のこと知らないのね、呆れた]
「俺だけじゃねぇよ、ガーティも、……誰もしらねぇ」
 そう呟いたコンラッドの声音は、彼にしてはありえないほどに切なげでもあった。伏せた瞳が瞼の裏に何を思い出しているのか、アリスにはわからない。けれどそこでは彼なりの葛藤があるのだろう。
「俺は三年、あいつは十年もあれと一緒だ……けど、俺もガートルードも……あいつの過去には、少ししか触れてない。あいつの生きてきた時間よりも、ずっとずっと短いから……奴が伝説の守護八神≠フ一人で、元サイプレス≠ナ……パンドラ企画の幹部だって事、ぐらいしか知らないんだ」
[……パンドラ企画……]
 アリスの小さな声が、微か強張ったようにも思えた。
 パンドラ計画―――それは名の通り災厄を振りまく計画だったと残されている。
 新地大革命(ブラッディ)以前、この地球の人口は昔に比べ大幅に増加していた。すでに地球温暖化により水没した島国もあれば、貧困と飢えで全滅した地域も中には存在したが、それらをも喰らい尽くすかのような勢いで勢力を伸ばした先進国での人口は爆発的に増えてしまったのである。人間達は増えた人口の中でも暮らしていけたが、その事情に悩む各国政府中枢部の人間は、どうにかしてこれからおこるであろう食糧危機や、また異常なスピードで進む人口増加、環境破壊に対して対策を講じなければならない、そう考えていた。
 そんな時、それを危惧した一人、ドイツ人の誇りとも言われた、最先端技術を駆使し様々な機械を発明した偉大なる科学者ミヒャエル・ツェンダーはこれを何とかすべく立ち上がり、自分の考えに同調してくれる同志を集め、政府のバックを頼りにパンドラ計画を作り上げたのだ。
 ミヒャエルの考え―――それは人間の機械人間(ドロイド)化。それは彼の技術あってこその提案だった。ドロイドには部品として人間の脳やその他人間らしく見せるための器官を最低限搭載し、食事も少なく、また環境にも優しい作りにして、未来崩壊をとどめよう。彼はそう考えたのである。
 そうして生まれてきた機械人間達。しかしそれは、災厄としてこの世界に溢れ落ちた……
「……俺はさ、別に機械人間を恨んでなんかない」
 しん、とした静寂を破るように不意にポツリと、コンラッドは呟いた。その言葉に、女機械人間(・・・・・)は沈めていた顔を上げた。少しだけ潤んでいた瞳が、優しく見つめてくるコンラッドを捕らえる。
「それは俺が、機械人間みてぇに忌まわしい存在だって思われてたからかも、しれねぇけど……」
 そっと逞しい男の掌がアリスに触れようとした。しかしそれはするりとアリスの映像をすり抜けて、空を切る。当たり前のことだ。彼女の本体はここではない遠く西―――二度と戻るまいと決めた大国にあるのだから。白を基調とした病院の関係者以外立ち入り禁止の一室で、たくさんの機械にがんじがらめにされて、ただひたすらに自分の帰りを待っている。映像になってまでも、自分を心配して、自分を苦しめる機械を通じては情報を手に入れて、自分を助けようとする。何故自分に―――そんな目にあわせてしまった愚かな自分にこうまでしてくれるのか。コンラッドの優秀な頭脳は、それの答えを導き出してはくれない。
「俺が帰ったら―――」
 それでも帰ることはないだろう。自分が残した罪に、自分が押しつぶされなくなるまでは。
「お前がどんなに機械まみれてても、抱きしめてやるから」
[……!]
 ぽろり、と涙の映像がアリスの白い頬を伝った。そしてアリスは、ふと口から漏れそうだった言葉を口内に押しとどめて、深々とお辞儀をした。今の自分を見たらきっとこの人は私を嫌うだろう―――そんな恐怖が、胸から溶けるようになくなっていく。
[ありがとう……クーノ]
 上げた顔には涙の痕だけを残して、綺麗な笑みが浮かんでいた。


 一度通信を切ったのと、病室のドアがノックされたのはほぼ同時だった。
「アリス、入るよ」
 ドアをノックした主はアリスが今機械に埋もれて返事が出来ないことを知っている―――それも三年前からそうであることを。肩までもない美しいブロンドの髪をなびかせ入ってきた女性は、僅かにあいた隙間からかろうじて生命維持をしているアリスを見下ろす。青白い顔は生気を帯びていないものの、微かに上下する胸が生きている証拠だ。これでも三年ほど前よりはマシだろう、と思考しながら女性―――のように美しい、れっきとした男ジェシー・エヴァンスは傍の椅子に腰を下ろすと、設置された机の上のパソコンを起動する。パスワードを2回、指紋紹介を行うと「暫くお待ちください」というアリスの声と共に、画面いっぱいアリスの顔―――それも何故か涙の痕が残るそれが現れた。
[こんにちは、教授]
「やぁ、アリス。先ほどは緊急ラブメールをありがとうね」
[愛なんてこめてませんからご安心ください]
 にこやか過ぎる笑顔で直視されても、ジェシーの悪戯っぽい光を帯びた灰色がかったダイアモンドの瞳は相変わらずルビーを見つめている。コンコンと机を指で叩きつつ、ジェシー―――UCLA最年少教授兼月刊「ロス・プレイボーイ」トップモデルは頬杖をついてクスクスと笑った。
「それで、俺のクレーバー君は頑張ってるようかな?」
[本人は『俺のラストネームはフレーバーだっ! いい加減覚えろあの変態教師ィっ!』と言いはってますが……現在会話することが出来ます。回線を繋ぎますか?]
「よろしく」
 了解しました、というアリスの言葉から数秒後。アリスの画面が右下に小さく浮かび、今度は懐かしい自分の教え子が浮かぶ。パソコン上のカメラに向けて笑顔で手を振ってやった。
「やぁ、久しぶりだねぇクレーバー君。元気?」
[クレーバーじゃなくてフレーバーだっつーのこの変態教師!]
「変態教師とはお言葉だな」
 黙って微笑んで会話の様子を聞いているアリスの本体をちらりと見て、ジェシーはクスクスと笑む。怒っているような言葉ではあるものの、本人は楽しんでいるようである。思わずコンラッドでもドキッとしてしまうような色気ある仕草でブロンドの髪をかき上げると、ウインクをしてみせた。
「俺は教師じゃなくて教授だ、そちらこそ覚えておくべきじゃないかクレーバー君」
[あ、ああ……そりゃ悪ぃ……ってフレーバーだっ!]
「まあまあ落ち着きなよ。高血圧だね」
 持参してきたパックの紅茶にストローをさして、薄桃色の唇でそれを咥えると未だ威嚇中のコンラッドを灰色の輝きで見つめる。彼にしては真剣な顔である。
「なるほど、ロンドンについたわけか。じゃあアグライアもいるだろう?」
[あ? 知ってるのか?]
「まぁね。名探偵には、警察はつきものだからさ」
 自称名探偵は灰色の瞳をニッコリと笑ませた。灰色の脳細胞があるのかは不思議ではあるが、確かに彼は新聞に乗る迷宮入り事件も新聞を読み現場を検証しただけで、すいすいと解いてしまうため地元警察からは頼りにされている。そうするとやはり警察関係のパイプはあるようだ。
「それでも俺が気になるのはアグライアの方じゃない」
[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ]
「勿論(オフ・コース)」
 ちゅ、と紅茶で濡れた唇が水音を立ててストローを離した。その口元がニヤリと不適な曲線を描くのは、今から彼が謎解きを始める証拠だ。
「俺はね、君もいいセンしてると思うんだ。だけど、彼はね―――」
 ふ、とそこでジェシーの言葉が止まる。灰色の瞳が画面からそれて、灰色の空を見た―――雨が降りそうな空だ。それでも自分の瞳を見つめているようで、ジェシーは好きだった。
[……彼は、何だよ?]
 焦れたようにコンラッドが、尋ねてくる。それでもジェシーは空から目を離さない。
 自分の推理が正しければ―――間違ってはいないだろうが―――彼はどう動くだろう、と迷ったからだ。暫く鋭い深緑の瞳から逃げるように空を眺める。そして視線を戻してニコリと笑んだ。
「教えない」
[なんっだそりゃ!]
「だって君が成長しないじゃないか。俺は君のためを思っていってるんだよ。ああ、心が痛いなぁ」
[……]
 絶対嘘だ。楽しんでる。
 そんな瞳で尚も睨んでくる教え子に、ジェシーはその美貌を最大限に生かした笑みを見せる。
「それじゃ俺は次の講義があるからこれで失礼するよ」
[……お前、何しに通信してきたんだ?]
「愛する君の顔を見るためだよ」
 クスクスと笑んでくるジェシーの瞳が笑っていないことに気付き、コンラッドは自分の貞操が本気で危ういと悟った。引きつった顔を見せて来るコンラッドにニコリと笑って、ジェシーは立ち上がる。最後にアリス本体に投げキッスをして、人差し指を唇に押し付けたままカメラを覗き込んだ。
「それじゃあまたね、フレーバー君」
[だぁから俺の名前はクレー……あれ?]
 きょとん、とした顔を見せる教え子にちゅ、と投げキッスをしてやり、ジェシーはその場を静かに後にする。
 背後でアリスが通信を切った音が聞こえた。

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